高麗とムスリム
矢島洋一
はじめに
筆者は2011年3月に行われた本科研による広州・武漢調査に参加した。モンゴル帝国期のイスラーム史を専門とする筆者にとっての最大の目的は、広州懐聖寺に所蔵される「高麗人ラマダーン」の墓碑を実見することだった。ラマダーンは元朝の高麗人ムスリム官僚という極めて特異な人物である。3月10日に懐聖寺を訪れ、隊員諸氏の交渉と同寺アホンの厚意により、それまで写真でしか見たことがなかった同碑に首尾よく辿り着き調査することができた。同碑は宝物館のガラス棚の中に大事に立てかけられていたが、その横の床には他にもいくつかの碑石が無造作に置かれており、中には同じく元朝期に属するヒジュラ暦727年シャアバーン月末日(1327年7月)の日付を持つカースィム・ブン・アブドゥッラー・ブン・ザカリーヤー・イスファハーニーなる人物の墓碑もあった。翌11日には自由時間を利用して一人で広州博物館を見学した。すると館内の売店で売られている図録にラマダーン墓碑の拓本が掲載されているのを見付け、購入した1。同碑の拓本は旧版の図録にも載っていたが2、図版が小さく研究上の使用には堪えなかった。今回購入した新版の図録は同碑に丸一頁を割いており、大きさ・鮮明さ共に十分である。研究者に裨益すること大だと思われる。
1.
大食人の到来
朝鮮半島には既に三国~新羅時代には西アジアや中央アジアの文化が伝わっていた。正倉院白瑠璃椀や近畿各地の出土品と同様の西アジア製ガラス器は朝鮮半島からも複数出土している。また慶州鶏林路出土の装飾宝剣はカザフスタン出土品との類似が指摘されている4。文献上で西方から到来したムスリムの存在が確認できるのは高麗時代からで、『高麗史』には前モンゴル期の高麗に大食人が到来していた記事が三箇所に見える。
是月、大食國悅羅慈等一百人來獻方物。
この月、大食国の悦羅慈ら百人が来て名産品を献上した。
【B】巻5 世家5 顕宗2 顕宗16年9月(1025年)[上108]
九月辛巳、大食蠻夏詵羅慈等百人來獻方物。
九月辛巳、大食蛮の夏詵羅慈ら百人が来て名産品を献上した。
【C】巻6 世家6 靖宗 靖宗6年11月(1040年)[上132]
十一月丙寅、大食國客商保那盍等來獻水銀龍齒占城香沒藥大蘇木等物。命有司館待優厚及還厚賜金帛。
十一月丙寅、大食国の貿易商人である保那盍らが来て、水銀・龍歯・占城香・没薬・大蘇木などの品を献上した。官吏に命じて手厚くもてなし、黄金と絹を授けて手厚く報いた。
大食は西方のムスリムを漠然と指す用語なのでこれらの大食人がどこから来たのか不明だが、献上品からしておそらく海上ルートで到来した商人だったと思われる。【B】のみ大食国ではなく大食蛮(一般には
dānišmand
の音写と考えられる)とするが、特に区別していたわけではなく単なる混用だろう。
まずこれらの記事に見える人名の漢字音写は、漢語音と朝鮮漢字音の両面から検討する必要があるだろう。漢語音は11世紀なら後期中古音、『高麗史』が成立した15世紀なら近世音ということになる。朝鮮漢字音は資料の問題で15世紀以降の中期音しかわからない。以下に一般的な再構音により比較する6。
|
漢語音
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朝鮮漢字音
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||
後期中古音
|
近世音
|
ハングル
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中期音
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|
悅羅慈
|
jyat
la tsɦz̩
|
ɥɛ
lɔ tsʰz̩
|
열라자
|
jəl
ra tsʌ
|
夏詵羅慈
|
xɦjaː
ʂən la tsɦz̩
|
xja
ʂən lɔ tsʰz̩
|
하선라자
|
ha
siən ra tsʌ
|
保那盍
|
puaw
na xɦap
|
pɔw
nɔ xɔ
|
보나합
|
po
na hap
|
これらをムスリム名の音写とするなら、いずれの音価をもってしても確実に原語を特定するのは難しいが、漢語音よりは朝鮮漢字音に基づく方がいくらか解釈しやすそうである。既にこれら漢字音写の原語の推定はイ・フィス(이희수)によって試みられている7。まずイは悦羅慈を
al-Raza
あるいは
al-Raziとする。印刷上の都合か特殊文字記号が省かれているが、それぞれアッ・リダー
al-Riḍā、アッ・ラーズィー
al-Rāzī
のことだろう8。どちらもありそうであるが、「羅」の母音が
[i]
ではなく
[a]
であること、「慈」の母音
[ʌ]
は起源的には
[i]
である9ことから、Rāzī
の方が可能性としては高そうである。また「悦」をイのように
al-
と考えても問題ないが、y
音が付いていること、下の「夏詵羅慈」には「悦」が付いていないことから、別の可能性も考えるべきかもしれない。ヤール
Yār
~
というムスリム名が最も合いそうであるが、この時代にはあまり一般的ではない。冒頭に一字欠落があると仮定すれば、アイヤール
‘Ayyār
やハイヤート
Ḫayyāṭ
なども可能かもしれない。
またイは夏詵をハサン
Hasan(Ḥasan)とし10、羅慈は上と同じく
Raza
あるいは
Raziとする。これは問題なさそうである。ただこれが「ハサン・ラーズィー」という一人の人名なのか、「ハサンとラーズィー」という二人の人名なのかは判然としない。
一番の問題は保那盍で、何らかの誤記・誤写を想定しないとムスリム名としての解釈は難しい。イは疑問符付きでバラカ
Barakah
としており有力な一案だと思うが、他にもバナーカティー
Banākatī、アブー・ナジーブ
Abū
Naǧīb、アブー・ヌーフ
Abū
Nūḥ、イブラーヒーム
Ibrāhīm
などもあり得るかもしれない。
次に、【C】に見える到来品の流通状況についてまとめておく。
・水銀
『高麗史』には他にもいくつか水銀献上の記事が見えるが、その多くは日本からのものである11。日本は古くから丹生鉱山(現三重県多気郡)をはじめ有力な水銀鉱山を擁しており、この時期にはまだ水銀輸出国だったが、その後国内生産量の低下と需要増によって輸入国に転落していった。
一方イスラーム世界では特にアンダルスの水銀鉱山が古くから有名で、スペインは世界的な水銀規制の流れを受けて2004年にアルマデン(Almadén
˂ Arab.
al-ma‘din)鉱山を閉山するまで世界最大の水銀産出国だった。アンダルスの水銀(辰砂を含む)は国際交易の商品でもあり、イスラーム圏・非イスラーム圏を問わず輸出されていたことは複数のアラビア語文献が伝えるところである12。アンダルスの水銀は地中海を経てインド洋にも齎されていたらしい13。大食人が高麗に献上したという水銀も、もしかしたらそういった交易ルートを経てユーラシアの西端から東端へとはるばる運ばれてきたものだったのかもしれない。
・龍歯
龍歯とは大型哺乳類の歯で、薬物として使われていた。正倉院にもナウマンゾウの歯の化石「五色龍歯」が所蔵されている。ただし交易品としてはあまり一般的ではないので、ここでは象牙を指す可能性もあるか。
・占城香
占城は中部ヴェトナムのチャンパーである。チャンパーは数種類の香木を産出するが、ここでいう占城香とはチャンパーの名産として特によく知られていた沈香を指すのだろう14。なぜ産地名で呼んでいるのかは不明であるが、占城産の沈香は真臘産に次ぐ品質のものとして知られていたので15、三級品ではないことを明示するためだったのかもしれない。11世紀のチャンパーにおけるムスリムの活動は漢語史料やアラビア語史料から知られている16。
・没薬
没薬は乳香と共に南アラビア~東アフリカの紅海沿岸地域特産の樹脂系香料であり、薬剤としても用いられた。東アジアにいつ到来したのかは判然としないが、宋代の中国には確実に伝わっていた17。ただし朝貢等によって膨大な量が持ち込まれていた乳香と比べると、東アジアに齎された没薬の量はあまり多くはなかったようである。
・大蘇木
2.
モンゴル帝国期の回回人
高麗は1259年にモンゴルに服属した。以後、高麗はムスリム(回回人)とより密接に関わっていくようになる。
【D】巻33 世家33 忠宣王1 忠宣王2年10月(1310年)[上689]
戊辰、以閔甫爲平壤府尹兼存撫使。甫、回回人也。
戊辰、閔甫を平壌府尹兼存撫使とした。甫は回回人である。
【E】巻123 列伝36 嬖幸1 張舜龍[下687]
張舜龍、本回回人、初名三哥。父卿事元世祖、爲必闍赤。舜龍以齊國公主怯怜口來、授郞將、累遷將軍、改今姓名。…
張舜龍は元々回回人であり、初めは三哥という名だった。父親は元の世祖に仕え、ビチクチとなった。舜龍は斉国公主の怯怜口として来て郎将の職を授かり、将軍に累遷して今の姓名に改めた。…
【F】巻29 世家29 忠烈王2 忠烈王5年10月(1279年)[上591]
庚子、諸回回宴王于新殿。
庚子、回回人たちが新しい宮殿で王を饗応した。
【D】【E】は高麗で官僚として任用されたムスリムの例である。【D】閔甫については平壌府尹兼存撫使19に任ぜられたというこの記事以外に情報がないが、【E】張舜龍についてはある程度経歴を追うことができる20。ここにある通り世祖クビライに仕えたビチクチの子として生まれた張舜龍は忠烈王に降嫁したクビライの娘斉国大長公主の怯怜口21として高麗に到来した。郎将から将軍へと進み、名を改めた。郎将から始まり将軍、宣武将軍・鎮辺管軍総管、大将軍、副同知密直司事、同知密直司事と昇進し、忠烈王二十三年に僉議参理在任中に四十四歳で死去している。
【F】の回回人がどういった立場の人間であるのかは不明だが、ムスリムと高麗王家との良好な関係をうかがわせる記事である。
『高麗史』におけるムスリム関係の記事で最も多いのは、やはり元朝との関係にまつわるものである。
【G】巻29 世家29 忠烈王2 忠烈王9年4月(1283年)[上609]
元遣塔納阿孛禿刺來、督修戰艦。
元は塔納(ダナス
Danas)と阿孛禿刺(アブドゥッラー
‘Abd
Allāh)を派遣し、戦艦建造を監督させた。
【H】巻30 世家30 忠烈王3 忠烈王19年8月(1283年)[上631]
八月、元遣萬戸洪波豆兒來管造船、寶錢庫副使瞻思丁管軍粮。將復征日本也。
八月、元は万戸の洪波豆児(バハードゥル
Bahādur?)を派遣して造船を管理させ、宝銭庫副使の瞻思丁(シャムスッディーン
Šams
al-dīn)には兵糧を管理させた。
【I】巻28 世家28 忠烈王1 忠烈王元年3月(1275年)[上567]
辛巳、元遣宣諭日本使禮部侍郞殷世忠兵部郞中河文著來。
辛巳、元は宣諭日本使である礼部侍郞の殷世忠と兵部郞中の河文著を派遣してきた。
【J】巻29 世家29 忠烈王2 忠烈王6年3月(1280年)[上593]
戊午、元遣蠻子海牙來帝勑禁郡國舍匿亡軍回回恣行屠宰。
戊午、元は蛮子海牙を派遣し、郡国が敗走した軍を匿うことと、ムスリムが屠殺を勝手に行うことを禁じる皇帝の命令を伝えた。
【K】巻35 世家35 忠肅王2 忠肅王9年4月(1322年)[上709]
辛巳、元以王不奉行帝勑、遣翰林待制沙的等來訊。四月丙午、沙的執員外郞阿都刺及式目都監錄事李允緘別駕徐允公以歸。
(三月)辛巳、元は王が皇帝の命令に従っていないとして、翰林待制の沙的(シャーディー
Šādī)らを派遣して調べさせた。夏四月丙午、沙的は執員外郞の阿都刺(アブドゥッラー
‘Abd
Allāh)と式目都監録事の李允緘と別駕の徐允公と共に帰った。
【L】巻130 列伝43 叛逆4 裴仲孫[下835]
初賊謀作亂、將軍李白起不應、至是斬白起及蒙古所遣回回於街中、將軍玄文奕妻・直學鄭文鑑及其妻皆死之。
【G】【H】は共に元寇のための造船に関する記事である。よく知られているように、元寇船の調達にはムスリムが大きく関わっていた。
【I】は文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の間に元朝が日本に送った使者に関する記事である。ここでは殷世忠と河文著の名しか記されていないが、『元史』巻208日本伝によればこの二人には計議官の撒都魯丁(サドルッディーン
Ṣadr
al-dīn)という明らかなムスリムも同行していた。この遣使については日本側の史料にも記録がある23。鎌倉時代には日本人とムスリムとの直接の接触が始まっており、既にこれに先立つ1217年に天台宗の僧侶・慶政が中国留学中に泉州の船上でムスリム(らしき人物)に出会っていたが24、このサドルッディーンははっきり記録に残っている限りでは日本の土を踏んだ最初のムスリムである。しかし彼らは生きて日本を出ることはなく、鎌倉で斬首された。
【L】はモンゴルへの服属に反対する三別抄の反乱(1270~1273年)を起こした裴仲孫の伝に見える記事である。ムスリムはモンゴルの走狗と見做されたのだろう。【K】のように、モンゴルの高麗統制のためにムスリムが派遣されることもあった。
【M】巻124 列伝37 嬖幸2 盧英瑞[下703]
盧英瑞忠惠嬖臣也。嘗從王如元舍於回回家竊其妻杖之遣還。
盧英瑞は忠恵王の嬖臣である。かつて王に随行して元に行き回回人の家に宿泊した際、そこの妻と密通したため杖刑に処せられ送還された。
【N】巻136 列伝49 辛禑4 辛禑13年11月[下945]
禑如金鼻回回家索其女不得。賜回回子鞍馬仍令編髮侍從後、又取其女著男服隨之。
禑は金鼻回回の家に行き、その家の女を娶ろうとしたが叶わなかった。その回回娘に馬と鞍を授け、髪を束ねて付き従うよう命じ、さらにその女を娶って男の服を着せて従わせた。
最後は女性関係のトラブルである。これらは共に高麗人が元朝下で出会ったムスリム女性にちょっかいを出した記事である。
【M】では密通の罪を犯した盧英瑞が杖刑に処せられている。『元史』刑法志や『元典章』刑部によれば、男女同意の上での姦通では両者同罪で杖刑が科され、他人の妻を強姦した場合男は死刑で女は無罪となる26。ここで死刑でなく杖刑が科されたということは、この回回人妻も同意の上での姦通であったか、少なくともそう判断されたことになる。その元朝の法に従えば女にも杖刑が科されたはずであるが、中国では唐代以来ムスリム居住区が形成され、カーディー職も設置されてイスラーム法が運用されていたので、ここでも女の方はイスラーム法に基づき科刑された可能性もある。イスラーム法では既婚者の姦通(ズィナー
zinā’)にはハッド刑として石打ち(ラジュム
raǧm)にる死刑が科される。
【N】は高麗王・王禑(在位1363-1389)に関する記事である。「金鼻回回」という表現は、西方系ムスリムの容貌に基づく表現だろうか。
以上のように高麗は様々な形でムスリムと関係を持っていた。広州懐聖寺の墓碑に名を残す高麗人ラマダーンも、そのような背景の中に位置付けて考えるべき人物だろう。
4
古代オリエント博物館・MIHO
MUSEUM(編),
山本孝文(監修)『ユーラシアの風 新羅へ』山川出版社,
2009, pp. 28-30, 34-52; 宋義政,
高久健二(訳)「新羅出土の外来系文物」『専修大学社会知性開発研究センター東アジア世界史研究センター年報』5,
2011, pp. 77-80を参照。
6
漢語音は
Edwin
G. Pulleyblank, Lexicon
of Reconstructed Pronunciation in Early Middle Chinese, Late Middle
Chinese, and Early Mandarin,
Vancouver: UBC Press, 1991による。朝鮮漢字音は伊藤智ゆき『朝鮮漢字音研究』東京:
汲古書院,
2007の資料篇・漢字音表に基づくが、ここではIPA表記に近づけて若干変更した。中期朝鮮語の音韻・音価については、福井玲『韓国語音韻史の探求』東京:
三省堂,
2013をも参考にした。
11
文宗27年(1073年)、宣宗元・4・6年(1084・1087・1089年)に日本商人から水銀の献上を受けている。また宣宗10年(1093年)に拿捕された宋人・倭人混在の海賊船の積載品の中に水銀が含まれていた。『高麗史』巻9文宗世家、巻10宣宗世家。
12
al-Mas‘ūdī, Murūǧ
al-ḏahab wa-ma‘ādin al-ǧawhar,
ed. Charles Pellat, vol. 1, Bayrūt: Manšūrāt al-Ǧāmi‘a
al-Lubnāniyya, 1966, p. 194; Maçoudi, Les
prairies d’or,
texte et traduction par C. Barbier de Meynard et Pavet de
Courteille, vol. 1, Paris: L’Imprimerie impériale, 1861, p. 367;
al-Idrīsī, Opvs
geographicvm: sive «Liber ad eorvm delectationem qvi terras
peragrare stvdeant»,
fasc. 5, ed. A. Bombaci, U. Rizzitano, R. Rubinacci, L. Veccia
Vaglieri, Lugduni Batavorum: E. J. Brill, 1975, p. 581; Reinhart
Dozy & Michael Jan de Goeje, Description
de l’Afrique et de l’Espagne par Edrîsî,
Leyde: E. J. Brill, 1866, pp. 265-266, Ar. pp. 213-314; Olivia
Remie Constable, Trade
and Traders in Muslim Spain: The Commercial Realignment of the
Iberian Peninsula, 900-1500,
Cambridge: Cambridge University Press, 1994,
pp. 186-187.
13
ゲニザ文書からは、ユダヤ人商人がエジプトを経てイエメンへと水銀を運んでいたことがうかがえる。S.
D. Goitein, Letters of
Medieval Jewish Traders,
Princeton: Princeton University Press, 1973, p.
99には、チュニジアのユダヤ人商人がエジプトに送った荷の中に水銀があり、p.
215ではアンダルスからイエメンに運ばれたと思われる品目に水銀や辰砂が含まれる。S.
D. Goitein & Mordechai A. Friedman, India
Traders of the Middle Ages: Documents from the Cairo Geniza (‘India
Book’), Leiden &
Boston: Brill, 2008, pp.
226-230からは、水銀・辰砂がインド方面に輸出されていたことがうかがえる。また13世紀の例であるが、栗山保之『海と共にある歴史――イエメン海上交流史の研究――』東京:
中央大学出版部,
2012, pp. 41, 92にはアデン港におけるエジプトからの到来品や税関取扱品目に水銀や辰砂が見える。
14
アラビア語史料に見えるチャンパー(Arab.
Ṣanf)の沈香については、家島彦一『海域から見た歴史――インド洋と地中海を結ぶ交流史――』名古屋:
名古屋大学出版会,
2006, pp. 514-515; 家島彦一(訳注)『中国とインドの諸情報1
第一の書』東京:
平凡社,
2007, p. 40を参照。
16
桑原隲蔵『蒲寿庚の事蹟』東京:
平凡社,
1989(初版
1935),
pp. 188-190; Paul Ravaisse, “Deux inscriptions coufiques du
Čampa,” Journal
asiatique, 11ème
sèrie 22, 1922; Pierre-Yves
Manguin, “Études cam, II. L’introduction de l’Islam au
Campā,” Bulletin de
l’Ecole française d’Extrême-Orient
66, 1979, pp. 256-261.
19
平壌府尹は忠宣王期に設置された従二品の官職。『高麗史』巻77百官志は忠肅王期に安定道存撫使が平壤府尹を兼ねるようになったとするが、この閔甫のように既に忠宣王期に兼任している例がある。なお忠宣王3年7月に方于宣が平壤尹兼安定道存撫使に任ぜられている。
21
怯怜口は元朝公主の降嫁に随行してきた臣下だが、この張舜龍のように高麗で官職を得て昇進していく者もいた。岡本敬二「元の怯怜口と媵臣」東京教育大学東洋史学研究室編『東洋史学論集』東京:
清水書院,
1953; 舒健「怯怜口与高麗政局関係初探――以蒙古人印侯為例――」『元史及民族与辺疆研究集』23,
2011などを参照。
23
『鎌倉年代記裏書』には「承仕郎回々都魯丁、年卅二、回々用人」とある(「撒」がないのは脱字だろう)。竹内理三(編)『続史料大成第51巻 鎌倉年代記・武家年代記・鎌倉大日記』増補,
東京:
臨川書店,
1979, p. 53.
24
それを伝える高山寺方便智院旧蔵紙本墨書南番文字については、羽田亨「日本に伝はる波斯文に就て」『羽田博士史学論文集 下巻 言語・宗教篇』京都:
同朋舎,
1957(初出:史学研究会講演集第3冊,
明治43年);
杉田英明『日本人の中東発見──逆遠近法のなかの比較文化史──』東京:
東京大学出版会,
1995, pp. ;
岡田恵美子「海を渡った恋の詩──文化交流──」岡田恵美子・北原圭一・鈴木珠里(編)『イランを知るための65章』東京:
明石書店,
2004を参照。
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