2013年6月11日火曜日

2009年度 河南回民コミュニティ調査

20098月 河南調査 調査メモ
調査期間:729日〜88
参加者:青木、黒岩、佐藤、古市、森本、吉澤
任意参加者:梅村、新居、岸


 開封調査



2009.08.01 開封善義堂
午前845分出発、徒歩で善義堂清真寺へ

場所:開封善義堂清真寺、経堂
09:30〜10:30
インフォーマント:馬金堂アホン*136歳、陝西(平涼付近)出身

Q:いま清真寺にはどのくらいの人が礼拝にくるのか。
A:金曜の集団礼拝には40人ほど、平日は多くて20人ほど。モスクのまわりにはムスリムは少なく、外地から出稼ぎで来る人が多い。

Q:アホンのもっとも古い祖先はいつの時代の祖先か。
A:唐代からつづいている。

その他の聞き取り内容
・善義堂の「善」字は陝西の「陝」字を誤って書写したもの。
・陝西で回民起義がおこると祖先は陝西から逃げまわって開封にたどりついた。
・この清真寺は文革時にこの机や椅子などがこわされた。85年ごろに回復した。
・開封には13座のモスクがある。

アホン自身について
16歳ごろから蘭州の清真寺で経堂教育をうけてアホンとなった。14年ほど勉強した。
アラビア語、ペルシア語、イスラム知識を勉強した。ペルシア語はフサイニー*2を読むために必要。
父もアホン。一年間の打工(みならい?)期間をへて、2006年から善義堂清真寺でアホンをつとめる。

Q:漢族やほかの民族とのかかわりはあるのか?
A:陝西ではあったが、開封ではない。

Q:開封の清真寺間の連絡はあるのか?
A:開封には13座のモスクがあるが、交流がある。

Q:アラビア書道は習ったのか?
A:習った。経堂教育のカリキュラムのなかにアラビア書道がある。ここに掛かっている書法は真ん中に掛けてあるのは前のアホンが書いたもので、左の書法ははるか昔のアホンが書いた。コーランの文言を書く。

Q:アホンの任期は?
A:5年。慰留されれば延長する。

Q:王岱輿、馬注、劉智といった回儒3の著作を読んだことがあるか。
A:ある。馬注、劉智を読んだことがある。

Q:かれらの思想はまちがっているという人もいるが、どう思うか?
A:経学家たちはすばらしい。表面的には相違点もあるが、信仰心は同じである。王岱輿たちはカディーム4である。

Q:小児経5は使えるか?
A:使える。手紙でいまでも使う。便利だ。
(横にいた学生にたいして「おまえはできないだろう?」とたずねると、学生は「できません」とこたえた。)

Q:学生6は何人いるのか。
A:4人である。


場所:文書清真寺
11:00〜

インフォーマント:門前の老人ムスリムたち(アホンを含む6,7人)

Q:学校はあるのか、学生はいるのか?
A:ない。

Q:中に住んでいるのか?
A:中ではなく、まわりに住んでいる。

Q:ここが開封で一番おおきなモスクか?
A:ここではなく、ほかにおおきなモスクがある。

アホンは我々にどこから来たのかと質問したのち、礼拝殿にあがらなければ自由に参観してよい、と許可もでた。


場所:善義堂清真女寺
16:00〜
インフォーマント:馬アホン(基礎データは既出)

馬アホン再訪、女寺の参観を依頼。
男性が入ってはいけないという規定はあり、見知らぬ人は当然入れないが、知り合いであれば入ることはできるとのこと。
馬アホンに女寺を案内される。

以下、聞き取り概要。
(※ 女寺のアホンと家族について)
女寺のアホンは馬アホンの奥さん(女アホン)である。
奥さんはもともと馬金堂アホンの学生で、19歳?の時に結婚した。
14歳と12歳の娘も会話に参加)
娘はそれぞれ回民中学、小学に通う。共学。
娘はブルカも何も被っておらず、平服。
ただし奥さんは、規律に従えば被るべきだ、主張。
奥さんも平涼の出身。
(※ 女寺での礼拝について)
女寺は礼拝殿が8~10畳ほど。
集団礼拝のときに10人ほどが集まる。
ふだんはほとんど礼拝にこない。
(※ 同居者について)
奥さんたちの自室の向かい側に数間部屋があり、それは以前この女寺を管理していた信者が住んでいたのだが、もう亡くなり、現在は空だとのこと。
(※ 開封の女寺について)
開封のモスクにはすべて女寺がある。
モスクより女寺の方が多い(1,2座)。
(※ アラビア語教育について)
女寺ではアホン夫妻がアラビア語でコーランを教えている。
経堂教育ではコーランを読む爲のアラビア語教育を重視して、会話の能力を重視しない。それに対して、経学院では、留学などの爲の会話の能力を重視する。馬アホンも経堂教育を重視していて、アラビア語会話はできない。
(※ 宗派について)
自分たちはカディームに属するが、彼ら文書清真寺は新教7に属する。麻煩。


2009.08.01 開封東大寺
09301130
開封東大寺:  森本・梅村・吉澤

境内には、今年になって経費の使途問題の紛争があったことを示唆する通知があった。
また経費の収支報告が黒板に書かれていた。

第1インフォーマント
姓名不詳:1931年生まれ78歳 男性

沐浴室に入れと言われる
開封の地元の人
沐浴室と附属トイレの使い方を解説される。
 ☆訛が強く、ほとんど聞き取れない。

(第2インフォーマント)劉景武さん 開封市伊斯蘭協会 常務副会長 
(※ 碑文について)
古制連班序(アラビア文字と漢文の両面)の碑文のところで会話を開始
この碑は1983年に、現状に修復された。
それまでに傷んだ理由は、文革と黄河の水害である。
これは明代の碑文である。
(実際には康煕年間のもの)
カディームとイワーニーの対立を示している
(この時代の対立は別のものではないかと思われる8
古い碑文は三つだけ
(※大門の修築について)
 劉 七孔仙橋という建築だ
(※ 武術館について)
 劉 金曜に練習する

黒隊長の指示で、本堂の右側に移動。四つの碑文あり、左に二つの碑文あり。

森:礼拝時間の五つの名称はペルシャ語由来だろう
劉:そうだ
  碑文についての説明を受ける:本堂右の碑文は、寄付に関するもの。
  左の碑文は過去のアホンの名前・出身などの一覧

吉:今のアホンはどこの人か
劉:河南人だ。

森( 吉澤訳):学校は付属しているか
劉:学生は15人いる。大学レベルのものが一人いる。
吉:それは満拉(マンラー)か。
劉:満拉とは西部の言い方で、ここではハリーファという。
吉:アラビア語の初等教育はあるか。
劉:ここは規模が大きいモスクなので、ここではやらない。
吉:学生に奨学金はあるか
劉:生活費(食・住)は支給する


2009.08.02 開封善義堂

場所:善義堂清真寺
08:30〜

インフォーマン 1:内モンゴルではたらく青年、25歳。
概要:誕生日にはアホンを家に招待し、一緒に食事を食べる。やや豪勢か。
参拝に来る人には都市建設にかかわる人などがいる。

インフォーマント 2:馬徳立、善義堂清真寺管理委員会主任(50代か)
概要:
毎日清真寺にやってくる。
アホンを招聘する場合、アホンの学歴は二種類あり、ひとつは阿文専門学校(経学院のことか、と訪ねると、そうだと答える。あまり両者を明確に区別していない様子)を出た人、もうひとつは清真寺が教育した人つまり経堂教育をうけた人である。
経堂教育を受けた人は信仰心が厚く、経学院を出た人は信仰心が厚くない。だからわれわれは経堂教育を受けた人を採用することが多い。
開封において、アホンの年齢は40歳前後が多く、50歳以上はあまりいない。
新教と老教は、細かい部分はことなるが同じ道である。
河南省は国内でムスリムが三番目に多い省である。
招待所のほかにべつのレストランも経営している。


インフォーマント:老人、経理担当、71

Q:参拝に来る人はどのような職業の人か。
A:いろいろな職業がある。商売人など。

Q:モスクのなかで働いているひとはいるのか。
A:何人かいる。

Q:あなたはこのモスクでどのような仕事をしているのか。
A:経理だ。

Q:あなたはむかしのアホンの学生か。
A:学生ではなく、自分でまなんだ。アラビア語、ペルシア語などはできない。

わたしは白寿彝の親戚だ。


インフォーマント:青年(管理委員と思われる)、39

Q:ここで亡くなった方はどこに埋葬されるのか、墓地はどこになるのか。
A:小さいものはこのあたりにもいくつかあるが、開封には二大墓地があり、ひとつは小荘、もうひとつは朱仙鎮だ。以前はそれぞれのモスクに墓地があったが、いまはなくなっていて、このあたりにも北門の近くに小さな墓地があるが、いまでは次第に使われなくなっている(都市計画によるのか?)。

Q:アラビア語、ペルシア語はできるのか。
A:漢語でコーランを読んできたのでできない。アホンは学生にアラビア語、ペルシア語を教えてはいるが、われわれはできない。

Q:サイイード(といっても通じなかったので「聖裔」と言いなおす)はいるか。
A:答えにくい。中国にはいるが、起源が古いので、いると明確に言うのはむずかしい。

カディームというアラビア語については理解できなかったが、イマームについては知っていて、礼拝時にアホンがイマームになる、と説明。イマームについては経理の老人、主任も理解していた。

Q:妻はいるのか。妻は女寺に礼拝にくるのか。
A:妻はいる。ムスリムだ。けれども礼拝はしない。清真寺にふだん礼拝にくるのは退職者で、仕事をもっている若い世代は時間がない。

2009.08.02 開封北大寺
場所:開封北大寺
0900-1100
調査者:吉澤;青木;梅村;森本

(以下、観察内容等)
・位置:鉄塔四街1
インフォーマント 姚鴻賓さん;74歳。社区の責任者でモスクの実務責任者でもある。工事の監督に来ていた(回廊部分の門(三つめだろう)から見て左側の沐浴場の奥の区画を工事中)。
概要
・最初の話題、歴史簡介の話、改良計画に言及。
・次の話題、門の右側の二つの碑文について;歴代アホン・リスト碑文(2003)と王老太太の寄付の碑文(1999)。
・次々と碑文を見せてもらった。
・本殿の前に移動し、向かって右側上方、龍馬負図処という額を見る(宋代の嘉佑2年とのこと)。
・次に向かって左側、清代のアグイの記した文章の碑;右下に、戦事記、その左に前哨指揮所設置処という文面の大型表札のようなもの。
・大殿の入り口向かって左、アグイの碑の右側に置かれた黒板に書かれていたモスクの先月の収支報告を見る;収入の中に見られた「車費」について質問;人を乗せる車を寺で経営しているとのこと。
・礼拝堂に足を向ける。写真撮撮影は拒否される。屋内には立派な装飾が施されミフラーブ部分にアラベスクの装飾あり。
・金曜礼拝に来るのは 数十人であるとのこと。
・付設の武術館があり、毎晩練習しているとのこと。
・北講堂へ移動。西の壁面に碑文拓本3点あり。
・左の碑文;計開13件碑文;上がアラビア文、下が漢文。より詳しいのはアラビア文。漢文は13件の箇条書きだけ。アラビア文検討の要あり。
13件碑文の右にカアバの壁掛け、その下に横長の拓本一件;漢文だがほとんど読めない。
・カアバの右に縦長拓本あり;ア漢合璧;[劉氏捐施清真寺学堂市房碑記]。
・北講堂北側壁面の西端に小さめの縦長の拓本;下半分剥落;なかなか読めず。
・これらの碑文の現物は何処にあるのかを尋ねたところ、博物館だろう、との感じ。
13件碑文は「老カディーム」と新教の対立に関するもの。話題は開封のモスクの老新区分へ;開封には15のモスク、老が12、新が33とは北小寺、「文殊寺」、王家胡同。「老カディーム」であることに強い意識。
・話題は教育に;アラビア語学校あるか? 王家胡同モスクにある;ここは、アホンが3人、ハリーファ2人;アホンは3人みんな河南人;ハリーファはアホンについてアラビア語を勉強。
・女寺も付属[注記:「鉄塔3街清真女学」のこと]。
・モスク管内に前は34000人のムスリム、いまは減って2000人強。
・姚鴻賓さん自身について;傍らに控える女性は夫人である、耳が不自由で74歳;姚さんはムスクの「雑務・実務」を担っている;旅社の経営もやっている。
・東壁に貼られた3枚の写真を話題に;全てに姚さん登場;一番右のは80年代の写真;残り二枚は比較的最近の写真;写真にはハッジも登場;姚さんは今年11月にハッジに行く。
・他に写真を出してくる;開封市第9届クルバーン節回族伝統体育表演大会の写真、2008年のもの;武術の様子が写っている;幹部を姚さんがモスクに迎えている写真も含まれている。
・開封にサイイドはいるかとの問いに対しては「いない。西にはいるが」とのこと。
・昔このモスクの近くに墓があったというが、どこにあるのか?;壊して、よそに移った;開封の回民の墓、二つあり;すなわち小荘と朱仙鎮に回民公墓あり;いずれにもモスク;朱仙鎮の教長は劉さん、小荘の教長は趙さん;もとの墓の場所、地図に示してくれる(私訪院);1980年代に、この、墓地の移転が起こったとのこと。
・回廊の門のところの黒板に小荘ないし朱仙鎮行きバスの日程表;0801-08084本;20数人乗りのバス;朱仙鎮150元[注記 一台あたりの乗車賃売り上げではないか?];墓に行くのだ、墓参りと埋葬に行くのだ;0801小荘行き、0808朱仙鎮行き、0802朱仙鎮行き、0807朱仙鎮行き、午前8時ないし8時半発。
・宗教活動場所登記証(北講堂東壁面に掛けてある)を見た。モスクの住所あり:鉄塔41号。

鉄塔3街清真女学の場所を確認。

北門大街清真寺
アホンを探すが不在で管理人と思しき人物に質問;アホンは実家の用で一週間不在とのこと。二階にアホンの居室と住居;教長室;礼拝室、3階に倉庫と教室、1階は便所と沐浴室と事務室と伝達室と殯儀室;一階入り口の両側は店。

回民公墓訪問。[注記 私訪院は多数あるので注意]
私訪院バス停付近でタクシー下りる;バスの番号は6番;失敗と判明;タクシー再度拾う;東官荘に向かう;東官荘にて農夫に質問、墓知らず、回民の家もなしとのこと;おばちゃんたちに質問、墓知らず、回民も認知せず;地図の印を頼りに流す;運転手が発見;いくつか工場が並ぶ道の反対側に小さな流れ、それを渡ると墓地。


2009.08.03 河南朱仙鎮
09:00〜12:15
調査者:吉澤、佐藤、古市、梅村、森本 
朱仙鎮訪問


0900 仙人荘通過。別に回民の多いわけでないこの村にも、運転手は回民公墓があると言った。しかし、帰路に佐藤が注意してみたところ、「回民」のものとは確認できず。
  • 道中、タクシーの運ちゃん曰く、5-6年前に開封郊外の村で、二人の人の喧嘩を発端とする漢回の衝突。死者も出た。甘粛、新彊からも回に援軍。北京から回民の偉い人が来て収めた。回民村と漢族村の喧嘩だった。報道はされなかった。

0930 北寺門前到着。
・まず碑文を観察;南側碑亭の阿文古行13件碑文は素晴らしい保存状態;アラビア語の面、漢文部分に上書きあり;西側、漢文の「清真古行碑…」もよく読める;幅82cm、高さ199cm
  • 北側碑亭、東側の文章は剥落のためほとんど読めない;西側の面、李論文p. 83の万古流芳碑、一文字の誤りあり;彫りに不備あり。

0955 講解人、馬勝利の案内を受ける。
 以下、観察の概要
・寺の正式名称は東亜北大寺であるとのこと。
・朱仙鎮にはもともと5つのモスク。今は一つだけ、とのこと。
・女寺は二つある。
・大殿に向かう。
・大殿前室床(中央に東西に、礼拝堂に通じるように)に「先天」、「中天」、「達天俊路」という大きな刻文あり。
・前室と礼拝堂を分ける排水路(南北)あり。
・礼拝堂突入。靴を脱げば入ってよろしい。
・建築様式説明。宮殿云々とのことだが、よく分からない。「魚鱗片」はあった。
・謎のターバン(沙布白帽);誰がかぶっても良い;26のクラスの一番上のものである[注釈 意味不明];馬の帽子は一番ランクが低い。
・靴を履いて前室へ。
・南壁付近の木を見る。「相思槐」なる木であって、岳飛と関係あるとのこと;2代目の木であるとのこと;初代は大殿の背後にあった。
・南壁(木の上)に書道作品あり。劉アホンが書いた[注釈 後に誤りと判明];アホンは30歳あまりで、鄭州から来たとのこと;アホンは一人で、今は休んでいるとのこと[注釈 毎日休んでいるという不規則発言もあり]。
・回教伊斯蘭教文化展の部屋に移動。
・武術について尋ねる;「開封朱仙鎮湯瓶七勢研究会」という割れた看板ついて尋ねる;「七勢」が武術である;「湯瓶」が人名である;この武術はもうない(すべてでたらめである9)。
・他の展示品は、各種の帽子(沙布白帽以外は別の国のもの)、武術の石、埋葬の写真、ある程度の本(真功発微、アラビア語の文法の教科書、コーラン関係)、ミンバルあり、ムスリム書道の筆あり。
・清真寺栄影室に入る(東隣);モスクの歴史や重要来客に関する写真展示;アホンの就任式の写真あり、写真のキャプションからアホンのフルネームを知る。劉学強。就任年月日も判明。2005828日。
・回廊北側、回族民間剪紙芸術展の部屋に入る;剪紙だけでなく書道もある;書道をするスペースもあり、誰かが今も実際に書いている様子。
・移動中の会話、このモスクでの礼拝者は普段は30人、金曜礼拝は100人と馬が。
・モスク、16ムーの敷地がある。
・教育話に入る;学校はあったけれども今はほとんど機能していないと馬が[注釈 不正確な発言と思われる];話の矛盾が解決不可能なレベルへ;女寺はあると言うが、教育はないと言う。
・「教長解惑室」という部屋に気づき、用途を質問;教長がムスリム間の紛争を調停する[注釈 後で小さなプレートもあることに気づいた。教長室、会議室、と一つの扉に対して二つあった]
・そこで、アホンが講話なり授業なりをしていることに気づく。「学習室」で。時は1107。遠慮して突入はせず;部屋の中は窺わず。
・女学に向かう;馬につれられ、回廊北側を伝い、大殿裏側の西側の門より出る;南に行く;「50m」くらい南に行く、道の東側に「清真老女学」の看板あり。まっすぐ通路を入り、左斜め後ろが礼拝殿、礼拝殿の東側に沐浴室、そのさらに東に人が住んでいるような2階建ての建物;女アホンあり、姓は馬。
・すごすごと別の女寺へ。北大寺西の門を北に通り過ぎ、大きな四つ角をすぎ、その右側(東側);「北大寺女学」、門と続いた建物にムスリム用品店と「北大寺女学敬老院」あり;中に入る;礼拝堂は先の老女学と同じ位置に;ザクロの木あり;この二つの女学は80年代に分かれた;老女学の方は老女用、もう一つは若い人向け。
  • 「アラビア書法展」の部屋(北大寺回廊南側一番東の部屋)が突然開いていて、入る;卓球少年あり;碑文の拓本あり、ただし、碑文はそこに立っている古行13件の碑文;あとは芸術作品;ノアの箱船;米広江の書もあった。馬が言うには、米さん自身がここに来て書いたと。

  • 1145 会議室でアホンと面談開始;机が二つ、椅子がそれぞれに10脚程度;「真主唯一」の扁額が東の壁に。
聞き取りを開始。
インフォーマント:劉学強アホン、36歳。


劉:中河南省は回族人口全国3位(寧夏、甘粛につぐ)である。
Q:あなたはどこの出身ですか?
劉: 鄭州である。
Q:どこで修行したのか?これまでの経歴を教えてほしい。
劉: 鄭州北大寺、洛陽などである。ここに来て4年になろうとしている。名前は劉学強で、ムスリム名はصالحである。高等学校卒業後、91年より勉強を始めた。歳は36才である。
Q:学生は何人いますか?
劉:「学生」は5人、全て河南人である。
Q王岱輿や劉智をどう思うか?
劉:私は評価する、ワッハーブ派は回儒を拒絶する。
Q:この辺りにサイイドはいるか?
劉:中国にはシーア派はいない。サイイドは門宦にはいるが、東にはいない
 (注:アラビア語は基本的なことならばどうにか通じるレベルの会話力;本人も、自分のアラビア語能力は会話用ではないと語っていた。
Q:教育課程になにがあるか?
劉:クルアーン、タフスィール、ハディース、アラビア語諸学、イスラーム史、教法、スーフィーはやらない(اللمعاتだとかمکتوباتなどは読まない)。
Q:あなたは書を書きますか?
劉:私は下手だ、飾ってあるのは前の教長のものだ。
Q:書法は教育課程の一部か?
劉:違う。好きな人が好きにやる
劉:経学院の教育をどう思うか? 系統的である。英語やアラビア語を系統的に教える。しかし、ペルシア語はちゃんと勉強していない。
(注:回民の語彙の中にペルシア語単語が入っていることはしっかり認識していた)
Q:信徒の数は何人か?
劉:4000人程度である。
Q:礼拝に来るのは何人くらいか?
劉:80-90人である。ちなみに周辺に、漢族は5000-6000人いるだろう(漢族の方が多い)
Q:このあたりの回民の職業は?
劉:屠殺業が代表的である。
Q:公墓は何処にありますか?
劉:公墓はここから2-3km西にある。開封での死者の多くはここに葬られる。清真寺は大体車をもっているので、開封北大寺から来ても不思議ではない。
 お土産献上。1215前後、辞去。写真を撮ってお別れ。

・墓に向かって出発。墓は広いな大きいな;畑の中にあり;ただ、他にも区画があるに違いない印象;鎮から西に向かっていた舗装自動車道の北に我々は行ったが、南にもっと大きなのがあると運転手が言った。
  備考:タクシー代、1150元。

 許昌市襄城県調査

2009.08.06. 河南省許昌市襄城県
14001545
場所;石羊街清真寺教長室 
(調査者:青木、黒岩、佐藤)

インフォーマント;陳延年、78歳、イスラム協会秘書長

経学系伝譜の話あり
 以下、襄城に伝わる舎蘊善の伝説
伝説では舎は19歳で襄城石羊街清真寺に着任、アホンになって死ぬまでいたという。
(史実では30歳のときに着任)

1.舎氏が死んだ日の逸話
あるひとが田舎からででてきて襄城の大通りでばったり舎氏にあった。あって挨拶をして話をした。
しかしそのとき舎氏は家で死んでいた。舎氏が死んでいたことをきいてその人はびっくりした。

2.豚の頭が変わった逸話
ある漢族の行商がかごに豚の頭をいれて売り歩いていた。たまたま清真寺の門をはいって境内をとおって裏口から出て行った。舎がその人が門を通るのを二つ目の門でみかけ、ドウアーをした。その商人が豚の頭を町で売ろうとしてかごにかけた布をとったら人の頭にかわっていた。あわてて家に帰って父おやにはなした。父がモスクを通ったのではないかときくと、そうだという。父と商人がいっしょに清真寺にいって舎にあやまった。帰宅すると、人の頭は豚のあたまにもどっていた。

3.舎氏の無欲の逸話
遼寧でアホンをして、立ち去るとき、主任が旅費として銀錠を送った。アホンはいらないといった。しかし主任は送らないわけにはいかないといった。そこでその銀錠をつかって家をかりて学生を住まわせ、食べ物をあたえ、教育した。

4.康煕帝と舎蘊善の逸話
舎が北京でアホンをしていたとき、ラマダーンで回民は昼間はみな家で休み、夜はモスクで礼拝していた。それをいた漢族は回民は夜あつまり、朝になると家に帰る(夜住明散、図謀不軌)きっと夜によからぬことをたくらんでいるにちがいない康煕帝にいいつけた。康煕帝はみずから民間の老人の服装をしてモスクをうかがいにいった。沐浴室で身を清め、礼拝場にはいった。そこでアホンの説教をきいた。アホンは信主、敬主、拝眞をせよと説教をした。皇帝は主をじぶんのことと勘違いして感心して、3晩かよった。皇帝のあるきかたは民間の人と違う歩き方であった。アホンが不思議に思っておまえはだれだとたずねた。するとわたしは康煕帝だとこたえた。おまえは何もあやしいことは話していない。おまえの説教はすばらしい。とこたえた。そこで皇帝は黄馬グアをアホンにたまわった。皇帝は朝廷にもどると、回民の悪口をいうことを禁じた。このとき皇帝が舎にあたえた黄馬グアは舎の子孫が代々保存しているが、見せてはくれない。
別伝では康煕帝ではなく別の太子がモスクをみにきたというが、このはなしは史実に矛盾する。なぜなら康煕帝の生前、だれが太子かは誰にもわからなかったからである。

(注記:石羊街清真寺は3000人の回民がいて、ジュマー時は200人あまりの礼拝者がいる)


16:45〜17:45(舎蘊善墓に訪問の時間をふくむ)
場所;舎庄清真寺
インフォーマント;羅アホン、37歳、甘粛省平涼出身
06年農歴10月に着任、はじめてのアホン職。
住所は紫雲鎮舎庄

Q:この省のムスリム人口はどれくらいか?
羅:庄のムスリム人口は200人あまり。
Q:礼拝者はどれくらいか?
羅:礼拝者は普段は5,6人、ジュマー時は10人から20人。
Q:イスラーム知識についての教育は行われているか?
羅:紫雲小学校には回民班はない。アラビア語を学ぶ子供はいないし、このモスクでも教えていない。夏休み冬休みに子供はモスクでイスラームの知識を学ぶ。
Q:どこでイスラーム教育を受けたのか?
羅:平涼北大寺で教育をうけた。
Q:それは経堂教育か?
羅:そうだ。
Q:ということは貴男はカディーム?
羅:自分はイフワーンで、この清真寺もイフワーンである。
舎の子孫がいる南関清真寺もイフワーンである。イフワーンにも経堂教育ある。イフワーンもカディームも違いはない。

舎の墓はモスクから1里あまり。
案内を受ける。






*1:アホンとは、イスラーム知識人としての教育を受け、それを教授する資格を得たもののことを言う。清真寺の最高責任者である「教長」「開学アホン」と同義に用いられ、小型の清真寺ではその傾向がとくに顕著に見られる。
*2:クルアーン(コーラン)注釈の一つ。
3 明末から清末にかけて漢語でイスラームの初学についての著作を漢語で著したムスリムの総称。
4 16世紀末に胡登州によって提唱されたイスラーム知識回復運動にしたがって形成された宗派、「清真古教」とも。かつてはタサウウフ(スーフィズム)文献を非常に重視した。
5 「小経」とも。漢語をアラビア文字で著す、回民独特の表記体系。
6 インタビュー中の「学生」とは、イスラーム知識人を目指す学生、すなわちマンラーないしはハリーファを指す。以下、「学生」という表現は同様の意味で用いられる。
7 ここで言う「新教」はイフワーニーないしはサラフィーヤを指す。
8 イフワーニーの成立は19世紀後半。
9 「湯瓶七勢拳」はムスリムが沐浴に用いるヤカン(湯瓶)に因んだ武術で、ムスリムの宝として著名である。現在でも、河南省、上海等で行われている。

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