2013年6月11日火曜日

2012年度 森本一夫氏の手記――調査記録にかえて

20128月甘粛・寧夏調査
調査期間:82031
参加者:青木、黒岩、佐藤、中西、古市、吉澤、森本

201208 甘粛・西寧調査 森本一夫氏のフィールドノート ―― 調査記録に替えて



2012.08.20
11:50 羽田集合、チェックイン、昼飯〈そば〉、解散、ゲート再集合、空港からは空港列車で東査門へ。そこから歩いてHoliday Inn Expressへ。1598元。黒岩さんと合流。羊肉しゃぶしゃぶ。

2012.8.21
イラン大使館ヴィザ作戦を実行、09:20ロビー集合、タクシーで空港へ、空港で新井さんからヴィザ発行の連絡、飛行機で蘭州へ、長城らしきものが見える(尾根を縫っているのが道と区別するメルクマール?)、空港着。空港バスで市内へ、1700頃芙英酒家着(1380元くらい)、中西さんと合流、四川料理へ。

2012.8.22
朝、牛肉麺(にゅうろうみゃん)、10時頃発で中西、古市、森本で臨夏へ向けて出発。バスの旅。以外と水の豊かな谷を通っていく。トウモロコシ畑目立つ、モスク目立つ。バスの蘭州出発は1030、臨夏着12301528、河海大廈でチェックイン(宿を探す過程ではやや苦労)。1240元。1712明德ゴンベイまでやってくる。市の北西?郊外の墓地地帯。介泉氏の2男がまず対応、5男の跡継ぎ氏1、昼寝から起きて対応(彼は父の死から2年半、ここに籠もらなければならない;とはいえ、ここを根拠とするだけで、四六時中ここにいないといけないわけではない。26日の行動がなによりの証拠)、蔵書は家に置いてあって今は見られない。優秀マンラー登場。Jawahir al-ulum4巻本である。Yawaqitが単にYawaqitなのかYawaqit al-mawaqitなのかははっきりせず。Nawadir al-Islamが明德にあるのは知っている。Wasilat al-Saadatもある。ハナフィーはnidaʾのところ、全く声を出さないから、Aminnidaʾの話が関わってくる条項は我々とは文脈違い(アーミーンの声を出すのはシャーフィイー学派)。ファーティハの重念もない(アウラードの際の)。Irsal sunbulat al-amamatahta al-hanakのことではない。なお、明德氏一家はサイイド2ゴンベイの中の壁にカルバラーの写真が飾ってあったところからその方面の話へ。どうしてカルバラーが? ムハンマドの孫だから敬意を表して。ところで明德氏もサイイドか? そうだ、ムハンマドの子孫だ。そのこととカルバラーの写真とは関係あるか? 明確な答えなし。 系譜の書はあるか? 当初明確な答えなし、結局のところ、道統を表したものはあるが系譜に関するものはなかったということであろう(これらの問答、全て優秀マンラーと)。夕食、火鍋。

2012.08.23
明德の本を見ることができないことがはっきりしたので、ゴンベイ巡りに方針転換。この日は大ゴンベイから。フフィーヤ・ナクシュバンディーヤ。出家人30人。ここは、出家制度を持つ珍しいゴンベイで、出家すると妻帯せず、子もなさない。師匠の===氏(野帳にはメモあり。漢字が…)は50代で第10世代目。その弟子である今の学生たちは第11世代目。
國ゴンベイ。出家人40人。壁に、アリーを称える内容を含む銘文を見る3
台子ゴンベイ。ここに、ペルシア語で書かれた神秘主義に関わる箴言?を内容とする銘文を壁に見出す。
(昼寝少し)
1430再開で、(元)経書屋巡りを行う。公的認可を受けた正式な出版物以外の販売が、今年の3月に、去年10月の新疆での騒ぎが理由となって禁止された結果、アラビア語やペルシア語の経書が店に出せなくなってしまっている4。中には店がすっかりなくなって、コンピュータ屋になっているところもあった。ブースターンの中漢対訳本を購入(100元)。夕飯、少しやさしめのものを。全体に、臨夏到着以後、高度のせいであろう、古市氏の意気が上がらない。

08.24
朝に車の手配などをし、1120発で大湾頭へ。段々畑(トウモロコシや小麦など)の美しい景色の中を行く。1300前には大湾頭のクブリーヤ教団教主張家の邸宅に着く。張開吉さん(教長)と話す。彼は、94年から2000年(本人談。しかし、部屋にかかっていた幕(ペナントが四角になったようなもの)からは、1999年にはすでに大湾頭にいた感じ)までテヘラン大学の神学部で勉強した。クーイェダーネシュガーの23号館に住んでいたとのこと。イランではシーア派化の圧力を感じなかったかとの質問に、もちろんあったがという前置きで話したことは、彼には充分そうした違いが分かっており、互いにどちらが絶対的に正しく、どちらが絶対的に間違っているということはないという態度で対処してきたということ。シーア派は、シャイハインは否定するかもしれないがアリーは尊敬している、これは、シャイハインもアリーも尊敬する自分にとっては、イフワーンと親しむよりも親しみ易いという面白い発言。また、イフワーンの連中にとっては、イランでの留学生活はより難しいものになるという発言。クブリーヤの歴史については以下のごとし:アブドゥルカーディルは、karamaによって3度中国に現れた。最初に現れた時はフフィーヤを創設、次に現れた時はジャフリーヤを創設、3度目に現れた時には、弟子のハージャ・アブドゥッラーを通じてカーディリーヤを創設し(それはアブドゥッラーの子孫に受け継がれる)とともに、自身でクブリーヤを創設。クブリーヤはジーラーニー自身の子孫によって受け継がれ、自分もその子孫であると。ジーラーニーは東郷のサーリーに現れ、そこで200年間ハルワを行い、東郷で亡くなった(廟は大湾頭に。建物更新中であった)。イフワーンは、そんなことはありえないと言うが、ワリーには時をまたいで現れたり、瞬間移動をしたりということはありえるのであり(アッラーメ・タバータバーイーもそうであったように、との発言)、またジーラーニーはそうした奇跡が特に多いことで知られているのである、と。Manaqib Ghawthiyyaという本にもあるとおり。
張氏自身がジーラーニーの弟子であるのだからサイイドである。そのことについて質問。ムハンマドの子孫であることの意味はどうか。多くの人はそもそも私がムハンマドの子孫であることを認識していない。認識している人にとって、そのことに意味がないとは言わないが、とりたてて云々するほどのことはない。シャジャレナーメに関しては、80年前くらいまではあったが、その頃(共産化以前)に国民党の軍隊が通ったりした頃に書庫が焼かれてしまい、シャジャレだけでなく、あらゆる本が焼けてしまっている。
一旦お別れしてゴンベイを見物。帰って書棚を拝見、たいしたことはなく、辞去。
北大路で骨董を見させてもらい、屋台の開店を待ってからキャバーブを食べる。

08.25
午前は休憩の日。11時前に宿を出て、大ゴンベイの方に古銭を買いに行くも、(後から分かったことだが)土日は店を出していないとのことで、不発。紅園が、おそらく週末だからであろう、入場無料になっていたので入って、40分ほどだか時間を潰す。動物園も見る。疲れ切った感じのライオン、絶望することもなく檻の中を行き来することを繰り返すオオカミなど。
12時半集合、牛肉麺、まず、明德清真寺に約束していた共著論文のコピーを渡しに行く。すると、実は明日が祁介泉氏の四十日忌だということで、入り口を入ったところのスペースでヤクや羊を屠殺し、分解して、料理の材料を準備していた(翌日確認したところでは、牛1頭、ヤク4頭、羊5頭を屠ったとのこと)。祁忠明(Muhammad Mahmud)氏にコピーを渡し、モスクでやっていたマダーイフを見に行き、そこで中西氏が関係者と話を始める。翌日の計画が徐々にはっきりしてくる。介泉氏2男の方が目に入ったので中西氏がそこに話に行くと、そのまま入り口のところの事務所に招き入れられ、ジャガイモが出てくる。また、介泉氏3女の婿という馬仲元(Ahmad Sa`id)さんが我々の相手を。スィルヒンディー9代目の子孫であるところのAbu Sharif Muhammad Ma`sumが、明德氏(Kamal al-Din)と法門門宦を始めた人の共通の師。ワッハービー運動が激しくなったインドを逃れ、「サウジアラビア」に住んでいた。そこでカマールッディーンと接触。
そういう話をしているうちに、祁宗承(Qi Zong Cheng; Muhammad Ayyub; qizongcheng@yahoo.com.cn)というアラビア語を話す青年が現れる。イスラマバードの国際イスラーム大学でアラビア語・アラビア文学を勉強している(2年前か3年前から)。引き続きパキスタンで修士まで行くつもり。日本で博士をやれないか、などなど、という話もあったが、しかし、話の内容は主としてワッハーブ派批判とスーフィズム擁護。パキスタンで勉強しているとワッハーブ派の圧迫が特にきついのではないかという問いには、市井でのワッハーブ派の影響は極めて小さく、人々はスーフィズムを奉じていると。また、大学では色々な立場を紹介し、それぞれに考えさせるやり方なので問題なしと。
350年前、3人の兄弟がいた。Mawlana Hilal al-Din(祁静一)、Muhammad Dawud(祁動一)、Muhammad Yusuf(祁信一)。Hilal al-Dinは独身生活を通したので子孫残さず。Muhammad Dawudの後裔が大ゴンベイを。以上の二人が残した流儀はカーディリーヤ。宗承氏はMuhammad Dawudの子孫で、スーフィズムの見地からいくとカーディリーヤ。明德清真寺の人々はMuhammad Yusufの子孫で、祁介泉が信一から数えて12世代目。宗承氏は、生前の介泉氏にアラビア語とかアフカームとか、顕境的な勉強を子供の頃から大変教わったので、非常に慕っており、バーティンの側面では明德の人間ではないが、近い関係を持っている。なお、彼の意見では、古い歴史書などにあるように、Hilal al-DinMuhammad Dawudは兄弟だったが、Muhammad Yusufは同時代人ではあっても別の家族に属す人と考える方が正しいのではないかとのこと。なお、宗承氏は大ゴンベイの信徒であるが、出家人になるつもりはないので、2ヶ月前に結婚した。
明德を辞去し、4男の忠良(Hasan)さんの息子さんが運転する車で華寺ゴンベイに。特に変わったこともなく、ゴンベイを見物。それから近くの畢家城ゴンベイへ。これも同様。美しい植木が目につく。
宿に帰ってから中西氏の知り合いの蔵書家のお医者さんのお宅へ。写本も持っている。その一つはなんとかDihbidiが著したナクシュバンディー系の行状記+解説書のようなもの。他に、トルコ語の韻文作品の写本など持っている。本人が内容を理解しているという訳ではない。

08.26
7時に迎えに来てくれた祁介泉氏の4男、忠良氏とその息子さんの車に乗って、明德ゴンベイへ。着くとすでに40日目の儀礼が始まっている。ちょうどコーランの色々な章句を朗唱しているところ。これらは、後から質問したところでは、ミンシャールにまとめられているもの(つまり、ミンシャールの一部)5。コーランの章句が終わると、神の美名を唱えるのに移り、それからスーフィー詩を23バイトずつ前の人たちが朗唱しては,会衆が信仰告白を唱えるのに移る。これが終わったところで廟の建物から出るように求められ、出るとズィクルが始まる。上半身を前後に振りながら徐々にスピードを速めていくというもの。一番早くなったところでぴたっと止める。これがいくつかのパターンあり、それをやる。その後、ドアーのようなものを中で唱え、それにファーティハなどで応じるという感じ。9時くらいには終わる6。それから忠良氏にカマールッディーンの廟の方でまた色々と写真を見せてもらい、そのついでにサイイド血統のことを質問するが、自分たちはそうではないと(このこと、質問の意図がはっきり伝わっていたのは間違いない)7。車で明德清真寺に引き上げてくる。そこで朝食をもらい、娘婿の馬仲元氏とマウルード8のことなどを話していると、書庫を見るかという話に。朝の儀礼のところから一緒になっていたMatthew S. Erie君も一緒に見に行く。介泉氏自宅、最上階(3階だか4階だか)の書庫を見る。期待したような地元系の古い本などは見当たらず、ありゃりゃと思っていると、5男氏が怒っていて、我々とともに書庫に入り込んだ色々な人たちに退去を命じている。我々が入り込んだことに対して怒ったのか、色々な人が秩序を乱して入り込んだことに怒ったのかは、不明。1層下にある別の書庫も馬仲元氏は見せてくれようとしたが、これもおそらくは5男氏の介入で中止に。これでけちがつく形になったか、一旦休みに行って2時半にまたいらっしゃいという話に。Matthewも一緒にご飯を食べに行く。彼は、1年半ほど前まで、1年半だか臨夏の八坊に住み込み、様々なセクトにおけるイスラーム法実践のあり方の相違に関する博論を書き、5月だかにディフェンスを終えたところとのこと。
2時半、明徳清真寺に行く。行くと、老人が弔辞のように聞こえるものを独特の声色で述べている。以外と長い。それが終わると、クルアーン読誦が始まる(完古蘭経;ファーティハ→wa-l-duha→最後まで[イフラースは三回繰り返す]→ファーティハ→バカラの最初の5アーヤ。各スーラの最後に、La ilah illa Allah, Allah akbar, wa-li-Allah al-hamdを全員が唱える。読誦を担当したのは夏河の清真寺のイマーム)。それから、マウルードからの色々な部分の朗唱が始まる。初めはSharaf al-anamから。この、マダーイフの間など、「平信徒」は特に何も唱えず、黙然している感じ、と思ったら、前列の方では唱和しているっぽい素振りを見せている人もいる(制度として平信徒は唱和してないものとなっているのではなく、実際に唱和できる訳ではない人は感じ入りながら聴いているという感じ)。Mawludの部分部分を進めていき、Ya-nabiという祈祷に入りそうになると、会衆に線香が配られる(線香を手に持っていると預言者が臨在するとか)。線香を手に持ち、皆立ち上がり、会衆は中央を空けた形で二つのグループに分かれ、向かい合って立ち、情熱的に祈祷の文句を唱える。マイクを持ったマンラー軍団が祈祷本文を述べ、会衆は、(確か、)Ya rasul salam alaika, ya habib salam alaykaと唱和する。鳴き声がかなり立ち上る。これが終わるとまた座り、シャイフ・イブラーヒームのためと思われるドアーが行われた。
4時半くらいだかに終了。それから手づかみ肉を含む振る舞いのご飯があり、5時半くらいには最終的に明德清真寺を辞去する。聾アホン、聾アホン4巻、それと人が亡くなった時に関するアフカームの本を一冊もらう。葬式の時のことを記録したDVDももらう。
*個人的感想:葬儀に預言者讃歌を歌うという、内容上の違和感を感じないでもなかった。が、Minsharも同じことだが、そもそもイスラーム的には、そういった、神や預言者を称えるものしかレパートリーにない? そういったテクストを皆で詠唱して故人のために功徳を積むという、よくあるあの論理で説明はついてしまうであろう。

08.27
蘭州への移動日。午前、紅園前の古銭屋に明治10年の貿易銀を買いに行くも、店を出していない。北大路でも不発。麺を食べてからバスに乗って15時には蘭州へ。分隊の打ち上げを行う。

08.28
ゆっくり出発して、まず霊明堂へ。えらく立派な建物。正門の前で写真を撮っていると、写真を撮るなと老人。その老人にアホンのもとへ案内してもらう。トップは念教のために青海に行っている。このアホン、馬文龍(Muhammad Isma`il; 45歳)氏に主に相手をしてもらう。もう1人、たまたま東郷から来ているというアホンも適宜相手をしてくれる。
霊明堂での当方の最大の関心は、バーブ教派というのは一帯何なのかということ。これをしつこく聞き出そうとするが、あまり埒は明かない。語られた内容はいくつかの系にまとめられる。
1.道統に関して:āmid al-Dīnというアフガンから来た人物(サイイド)がいた(その師はMīr Ghiyāth al-Dīn)。これが、カシュガルに来ていた。それと、馬霊明が霊的交感(時代を超えて)。同時に、馬霊明はハーミドゥッディーンから数えて(教えの観点から)9代目の人に実際に会い、教えを受けた。したがって、馬霊明は10代目。霊明堂の第二代は、道統とともに、祈祷集(森本の言葉)alāt al-khayrātを受け継いだ。二代目(單[漢字適当]子陝)は自分が受け継いだものが確かなものであるかを確かめるためカシュガルに行ったが、九代目の弟子であるShaykh abūrに会うことしかできなかった。Shaykh abūralāt al-khayrātの内容を確認し、それが真のものであることを保証した。
2. フフィーヤとかカーディリーヤとかバーブ教派とかいうが、色々なものが一緒に伝えられている。alāt al-khayrātは内部のもので、かつトップがいないので裁可を受けることもできないので、あげられないしコピーもさせられない。まあ、見て下さいなという感じ。そこには、p. 91に、自派に言及して以下のように:duʿāʾ-i nisbat-i nām-i sharīf-i maʿnawī-i arīqat-i Naqshbandiyya al-Khufiyya al-Qādiriyya Surwardiyya (or Sarwardiyya?) Chaharwardiyya。なお、このページ辺りから始まる様々な偉い人に対し神が満足されますようにという祈願の文章は、ペルシア語。
・霊明堂の教義、就中、バーブ教派とは何かという問題については、思うような方向に話が進まない。馬さんが強調するのは、精子のコントロールによる長命・超人化に関する教え。以下、メモを整理できる範囲で整理しながら写す。出家制度がある。バーブ教派もカーディリーヤとほとんど変わらない。馬霊明は一度結婚した。出家するときにも離婚はしなかった(多分、精子のコントロールと関係ある)。精気の保持によって長命が得られ、老化が防止される。保本〓原。カーディリーヤは密伝であり、こうした精気云々に一般の人は関わらないが、フフィーヤは公開して伝える。道教とは関係ない。人の精気神、天の日月星、地の水火風が照応している。出家者は昼1時間、夜は9時から12時までの3時間、計4時間しか眠らない。馬文龍さん自体は35歳の若い奥さんがいるので、しばらくは楽しく暮らしたく、今は出家の計画はない。子も3人いる。が、いずれは出家してみるかとも思っている。馬文龍さんの父母は40歳の時にそれぞれ出家生活に入った。お母さんは大変な老人だが、月経のコントロールだかなんだかをするので、今も元気いっぱいでかくしゃくとしている。お父さんは73歳の時になくなったが、なくなる前日に自分は死ぬと述べた。高血圧。バーブ教派もこれまで語ってきたものと同じもの。ずーっと伝わってきたものだ。スィルスィラはハサン、フサイン、ジャアファル・サーディク、イマーム・マアスームなどに遡る。では、「バーブ」とは? → 門宦の名。(???) 試みにムハンマド・アフマドの名を出してみると、なんだか反応あり。スィルスィラ上では二五代目のはずとのこと(ただし、直後にalāt al-khayrātで彼がムハンマド・アフマドといって指した人の名は、実は違うものだった)。「バーブ」がマフディーとか、なにか違うものへの門であると言うことはない。
霊明堂を出てから坂を下り、五星坪のゴンベイ集中地区へ。クブリーヤの西坪ゴンベイへ行く。折から葬式が終わったところとかで、多くの人が出てくる。一回りする。ゴンベイで葬式関係と思われる儀礼をやっている。我々も参列者に数えられ、3元ずつだかかをもらってしまう。その後、用を足しに行った2名が、大湾頭に続く粗相をし、叱られるも、事情を知らなかったということで許される。
西坪の正門を出て右に転じ、坂を少し上がって也蔓ゴンベイに。これまでで一番質素なもの。どうやら、特定の門宦に属するわけではないゴンベイらしい。也蔓から来た何とかさんがバルフやらサマルカンドやらブハラやらを経て中国に至る過程を書いたような由緒書きあり。
その後、城煌廟が転じて古物市場になったものを見てから一日の活動を終える。日本の貿易銀は臨夏の紅園門前の出店的古物商にしかなかった。
08.29
骨休めをしつつ本隊の到着を待つ。本隊と合流し、昼食をともにしてから1909年に架けられた鉄橋、中山橋を見に行く。その近くから出ているロープウェイで黄河の対岸に渡り、高みから蘭州の町を眺める。黄河はかなりの増水。

08.30
甘粛省博物館を参観し、空港に向かう。日誌、ここで打ち止めとす。なお、この間、度重なる誘いにもかかわらず、酒もたばこも一切やらなかった中西氏に脱帽。





1 名前は祁忠明(Muhammad Mahmud)。0826に馬仲元さんに、なんで五男が跡継ぎになったのかを質問したところ、小さな時から優秀で、念教も好きだったからとのこと。
2 しかし、0826、祁忠良(4男、ハサン)氏によると、ムハンマドの子孫ではない。これ、祁宗承氏も40日法要の後の昼飯の際に,追認していたので、確実と言えよう。
3 あとで中西さんが撮影したゴンバド自体の入り口の上に掛けられた額の文句を見たところ、ʿAlī madīnatuhāのハディースだった。
4 ただし、Matthew Erieによると、この規制はもっと前から少なくとも建前上は存在していたとのこと。ウイグルに咎を科すのは、この場合、いつものことということに。
5 ミンシャール(のこぎり)というこの「祈祷集?」は、預言者ザカリヤーに由来する。ザカリヤーが迫害されていよいよ殺されそうになった時、神はザカリヤーを一本の樹木の中に隠した。しかし、イブリースが悪さをして、ターバンの端が木から外に出るようにしたので、ばれてしまった。人々がのこぎりでザカリヤーごと木を切り始めたが、ザカリヤーがこの祈祷集を唱えると、のこぎりがどうにかなって助かった(ここ、ちゃんと説明されたが、忘れた。ズィクルの時に体を前後させる動作をするのと何か関係があったような)。なお、ズィクルの際の体の前後運動に関しては、木が風に吹かれると揺れるように、生きているものは何かに感じると動くものだ(それに対して枯れた木はそうして揺れ動くことがない)。信仰が心にあるものがズィクルを唱えると自ずから体が動いてしまうのである、とのこと。以上、祁宗承氏から、0826の昼食時に聴き取り。
6 後(同日中)の、馬仲元さんからの聴き取りによると、朝のこの儀礼の参加者は200名位(古市氏の勘定だともっと。250から300くらい?)。西寧、寧夏、フフホトから来ていた人もいた。フフホトの人とは実際に挨拶を交わした(我々が)。途中でやってきたスーフィー風の連中は大カガの人たちで、彼らは介泉氏のムリードであったとのこと。
7 昼食時に祁宗承氏に確認。やはり血統でのつながりはない。なお、この関連で宗承氏が語った伝承が面白い。Hidayat Allahという人(後の中西氏との会話では、これは有名な人)が子供ができずに(あるいは結婚する度に妻が死んでしまい?)困っていた。別のどこかの場所に(なんだか東の方のどこかの名を言った気がする)サイイドがいるというので会いに行き、そのことを相談。サイイドは、自分には子供ができることになっているからそれをやるといって、ヒダーヤトゥッラーの背中を自分の背中と触れさせて、それで子供を譲ってやる。ヒダーヤトゥッラーは自分の町に帰ってついに子供を得た。それゆえ、ヒダーヤトゥッラーの子孫は預言者の子孫として知られている。

8 Sharaf al-anam, Mawlud al-Barzanji (nathr & nazm), Burda al-Busiriなどを含むマジュムーア。こうしたテクストは全体としてマダーイフと呼ばれている。なお、マウルードには、中国で作られたテクストは一切入っていない。

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