アホンの風格
中西竜也
はじめに
いわゆる「経堂教育」1は、近代にその弊害や限界が指摘されたが、様々な改革を経て、近代的ニーズに応えた結果、再生・存続し、今やさらなる発展を遂げようとしている。したがって、前近代と近・現代とでは、経堂教育の在り方に大きな差異がある。といっても、いっぽうで変わらぬものも、当然ながら存在する。たとえば、前近代の文献中に描写される過去の「アホン」2たちの営為や心性の一部は、現代にいきる生身のアホンのうちにも見出すことができる。
このような連続性の発見が生じ得るのは、アホンとは何か、もしくはアホンとはいかにあるべきかをめぐるある種の観念が、ひろく中国ムスリム社会のあいだで支持され、かつ時代を越えて維持され続けてきたからであろう。とすれば、その種の観念は、前近代・近現代を通じて中国ムスリム社会がアホンに期待してきたところ、あるいは中国ムスリム社会の普遍的心性の一端を考える手がかりになるかもしれない。
そこで以下では、現代のある一人のアホンと、文献中に登場する過去のアホンたちとのあいだに、筆者が感得した連続性について報告する。それ自体は、あくまで主観的感想の域を出ないものかもしれないが、それでも前近代と近現代を貫く中国ムスリム社会の普遍的心性という問題を今後かんがえていくうえでのひとつの手掛かりにはなるだろう。
海アホンとの会見始末
その人は、ある種の威厳を放っていた。といっても、けっして威圧的なところがあったわけではない。むしろ突然の来訪者にすぎない我々を実に丁重にもてなして、その目は優しげですらあった。にもかかわらず、全身から凛とみなぎる気品のようなものに、私は気圧されるような感じを覚えたのである。それは強いて言えば、師のまえで畏まっているときの感覚に近かった。積み上げられた学問の圧倒的な高さと厚みを前にして憧憬と戦慄が同時にこみ上げてくるような、あの感覚である。彼の威厳や気品は、知識の確かさや研鑽の久しさ、あるいは志望の高さや信念の堅さから、おのずと醸し出されるもののようであった。アホン然としたアホンとは、きっとこのような人のことを言うのであろう――それがその人、海明豪アホンの印象だった。
河北省滄州の南大清真寺に、我々が海アホンを訪ねたのは、2012年2月16日のことだった。この訪問の動機のひとつは、彼の祖先にあたる海思福という民国時代のアホンに、私が興味をもったことにあった。海思福(1832-1920)は、王静斎(1879-1949)3の師の一人として知られ、王の回想録のなかでは、200余種のアラビア語・ペルシア語イスラーム刊本(印版西経)を保有する大蔵書家としても言及されている4。私がとくに興味をもったのは、そのような大量の刊本を海思福が入手した経緯や、その社会・経済的背景、および思想的背景・影響がどんなものであったかということであった。また、それら蔵書の具体的内容や残存状況も知りたいところであった。これらのことについて、子孫ならば何か知っているのではないか、そう思って、海思福の後裔である、海アホンを訪ねたのである。
結局、海思福コレクションの全貌や、それらの入手経緯およびその歴史的背景などについては、具体的な知見を得ることができなかったが、残存状況については確かな情報が得られた。すなわち、ただ一種類を除いて全てが失われた、とのことだった。
原因は文革だった。アラビア語・ペルシア語のイスラーム諸経典は、すべて当局に没収され、ほとんどがそのまま返ってはこなかったのだった。ただ、文革収束後、奇蹟的に一種類の経典だけが、当局によって海氏のもとに返却されてきたという。その経典とは、ペルシア語のクルアーン注釈、『タフスィーレ・ザーヒディー(Tafsīr-i
Zāhidī)』全4冊だった5。その末尾には「真主よ、この経典を水禍や災害から保護したまえ」という祈祷句が記されてあり、それが手元に返ってきたことに神の加護を感じた、と海アホンは真剣な表情で語った。
アホンの写本が語るもの
苦難の時代を潜り抜けた『タフスィーレ・ザーヒディー』は、今なお大切に保存されているというが、やはりあまりに貴重なものなので拝見することはかなわなかった。しかし、代わりに海アホンは、自筆のペルシア語写本を我々に見せてくださった。サアディーの『薔薇園(Gulistān)』だった。比較的大きな文字で書かかれた本文の下には、微細だが明瞭な文字で注記が施されているらしかった。どれも実に美麗な文字で記されていた。写本を我々に見せながら、海アホンは次のように説明した。アホンたちは今も昔も刊本より写本を好む、なぜなら写本は、行間を広く取って、そこに文法事項や語釈、コメントなどを注記できるからだ、と。そういえば、中国では、アホンたちが自ら写したと思しきアラビア語・ペルシア語写本の私家影印刊本が流布しているが、それらにおいても、しばしば行間に文法事項や語釈などが注記されている。海アホンの説明はこの事実に符合した。
海アホンの説明は、いわゆる「経堂教育」における経典学習の具体的な様を示すものとしても非常に興味深いものだった。それは、『経学系伝譜』の次の記述を想起させた。
〔朝食が終わると、舎起霊は〕門下生をして順番に、取り組んでいるところの経典を携えて来させ、それについて講義した。文法(那哈呉=naḥw)の経典<原注:アラブの文芸の字義に関する経典>の如きは、字毎にその根源は何に出るかを、そして文体は何に法っていて、その意味は何であるかを指摘した。これを“聴経”と謂った6。
経堂教育は、17世紀を通じて徐々に整備され、17・18世紀の交に活躍した舎起霊に至って、後代にも見られるような比較的完成した姿をとるようになっていたと考えられる。この記述は、その舎起霊の学堂における教授方法を説明したものである。すなわち舎起霊は、門下生に、たとえばアラビア語もしくはペルシア語の文法書をテクストとして教授する際、字毎の根源(アラビア語の語根やペルシア語の動詞不定形のことだろう)7、文体(完了形・過去形、未完了形・現在形などの動詞変化形の種類、あるいは肯定文、否定文、命令文、受動態といった構文のことだろう)、さらに語文の意味を教示したとある。そして、ここからは推測だが、そのような「聴経」のさい、門下生たちは、文法書を自ら筆写して教科書として持参したうえで、テクストの行間に、師の指摘した文法事項をノートしていったのだろう。またおそらく、彼らはその後の学習においても同様の方法をとったのではないかと推察される。経堂教育において、文法書の学習は初歩にあたる。学生たちは、文法書をマスターしたのち、神学や法学を攻め、さらに優秀な者はスーフィズムの研究へと進んだ。彼らは、これら諸学の経典に取り組むさいにも、文法書でやったのと同じように、自ら筆写したテクストの行間に文法事項や語釈を注記していったのではないだろうか。
海アホンの『薔薇園』の写本は、彼がそのような経典学習方法を実践していることを示唆していた。舎起霊以来の経堂教育の作法が今なお脈々と引き継がれていることを目の当たりにし、かつ、経堂教育で培われた基礎がたしかにアホンたちの経典研究を支えていることを実感し、大変感慨深いものがあった。
さらに言えば、海アホンの威厳と気品は、そのような伝統の継承の上に形作られたもののように、私には思われた。舎起霊以来の経堂教育数百年の歴史の重み。加えて、その伝統を引き継いできた、海一族の家学の厚み。海思福の後裔は、我々の海アホンをはじめとしてアホンとなる者が多くいた8。中国におけるイスラーム学の伝統を守り伝えていくことへの自負と責任感が、海アホンのアホンとしての風格を醸成していたのだろう。そう思うと、歴代のアホンたちが、中国ムスリムたちの尊崇を集め得たことの秘密の一端を、垣間見た気がした。
ところで、海アホンの写本が、きわめて端正な文字で書かれていたことは、実に印象的であった。そこには、イスラーム経典とそれが載せる知識への敬意と愛惜が溢れているように見えた。海アホンにかぎらず、中国のアホンたちに接するごとに、私は、彼らの知識への欲求と、その源たるアラビア語・ペルシア語経典にたいする並々ならぬ思い入れを、常々感じていた。たとえば、開封・朱仙鎮のアラビア語碑文に関する論文9を書くために、当該碑文に記されている礼拝の作法をめぐって、中国西北部のアホンたちにインタビューしたときのこと、質問のさいに森本一夫氏が作成したアラビア語碑文テクストを示したところ、アホンたちは、そのテクストをコピーしたいと頼んできた。おそらく彼らは、中国イスラームの伝統的教義が記されたテクストを、貴重な知識を伝える一種の経典とみなして欲したと思われる。
実は、そのようなアホンたちの心性もまた、17世紀の経堂教育勃興期にすでに確認される。たとえば、舎起霊の数代前の師、馮伯菴が、ナジュムッディンー・ダーヤ・ラーズィーのペルシア語スーフィズム著作『下僕たちの大道(Mirṣād
al-‘ibād)』を雲南で発見し、苦労して入手したという逸話が、『経学系伝譜』にみえる。『経学系伝譜』がわざわざそのような逸話を載せたのは、昔日のアホンたちによる経典探求・収集の営々たる努力こそが、中国のイスラーム学発展の礎を築いたことに敬意を表し、それを記録にとどめることで、彼らの志が後代にも受け継がれていくことを期したからであろう。
イスラーム経典を珍重する心性は、一度それを奪われたことのある海アホンにおいて、なおさら強く宿っていたはずである。誠実かつ丁寧に筆写された写本の文字からは、彼のそうした想いがひしひしと伝わってきた。私が海アホンにたいして抱いた、アホン然としたアホンという印象は、ここでも強められた。
おわりに
海アホンとの会見は、当初の目的からすると大きな実りがあったとは言えないかもしれない。しかし私は、海アホンという生身の人物を通じて、アホンのあり方をめぐる前近代と現代の連続性を感得し、少なくともそれを問題として意識することができた。これは、少なくとも私にとっては予期せぬ大きな収穫であった。それにしても、ごく短い時間のあいだに、アホンの何たるかを言葉なしに身をもって示して実感させた海アホンは、まことに大人物というほかない。私は彼に、経堂教育数百年の営みの縮図を見た気がして、胸が熱くなった。
1
清真寺で行われる宗教教育のこと。「経堂教育」の呼称は、民国時代から使用されるようになった。当時は、「寺院教育」という呼称も存在したが、現在は「経堂教育」の名が一般に定着している。
2 中国では、イスラームの知識をもった学者たちを、「アホン」と称する。とくに、経堂教育の教師を指す場合もある。アホンは、ペルシア語で「学者」を意味する「アーホンド(ākhund)」がなまった言葉である。
3
近代中国のいわゆる「四大アホン」のひとり。クルアーンの翻訳を手掛けたほか、中国イスラームの近代化にも大きな役割を果たした。
7
舎起霊の師、常志美が著したペルシア語文法書『風(Hawā’)』(al-Zīnīmī,
Muḥammad
b.
al-Ḥakīm
[常志美],
Minhāj
al-ṭalab:
Kuhan-tarīn-i
dastūr-i
zabān-i
Fārsī,
ba-kūshash-i
Muḥammad
Javād
Sharīʻat,
Isfahān:
Mashʻal,
1360[1981/1982], p.6)では、ペルシア語の動詞不定形が、語根のように扱われている。
そして知れ。maṣdar(動名詞,ないし不定詞)の意味は,言葉の表面上から言えば,そこから出てくる所,ということである。すなわち,動詞がそこから出てくる所である。そこから出てくる動詞とは,過去形(māḍī),未来形(mustaqbal=現在形),過去否定形(jaḥd),未来否定形(nafy),命令形(amr),否定命令形(nahy),能動分詞形(ism
fāʻil),受動分詞形(ism
mafʻūl),形容詞形である。
8
海思福の長男の三人の子、海朝賢(長男)、海朝良(二男)、海朝英(三男)のうち、二男と三男がアホンであった。また、海朝賢の孫、海明光や、海朝英の子、海徳真もアホンであった。海明豪アホンは、海徳真の子である。
9 中西竜也、森本一夫、黒岩高「17・18世紀交替期の中国古行派イスラーム:開封・朱仙鎮のアラビア語碑文の検討から」『東洋文化研究所紀要』(東京大学)第162冊、2012、
120
(223)-55 (288)頁。
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