2011年2月山東回民武術調査 調査メモ
期間:2月21日~年3月2日
調査者:黒岩、宮田
2011.02.23日(水) 済南
快晴
場所:済南市清真北大寺
午後1時到着、一時半聞き取り開始
聞き取り手:宮田(攻)、黒岩(受)
インフォーマント:李全福教長
あわただしい様子でアホン登場。
黒:(いそがしそうなので)今お話しする時間はありますか?
李:時間はどれくらいだ?
黒:(宮田と相談して)一時間だ、いや30分だ。
李:今五日間外のホテルで会議があって、一時的に戻っている。私は家を空けることが多い。半年前にも人民大学で会議があって、家を空けていた。
李:今回は何を聞きに来たんだ。(我々が言い淀むと)そういえば、手紙を受け取った。ありがとう。
黒:手紙で知らせた通り、今回はムスリム武術の取材で来た。
宮:ムスリム武術の先生を誰か紹介してくれないか。
李:自分が武術をやっていたのは、23〜25歳ぐらいの話なので、今よくわからない。(黒をさして)彼が武術をやっていたのはすぐ分かった。
李:済南でムスリム武術をやっている人はあまりいない。
宮:あなたの故郷の徳州ではどうですか?
李:故郷の徳州でもいない。ムスリム武術というと査拳や弾腿なんかだよな?
黒:回回十八肘は?
李:(ひじ打ちをするポーズをとりながら)回回十八肘?知らない。
李:ムスリム武術家がいるのは、滄州や開封つまり河北、河南だ。河北には孟村の八極拳がある。済南でやっていたのはもともと摔跤だった。
黒:(地図を指しながら)菏澤、聊城は?
李:いるけども、漢族だ。
※ 結局のところ、李アホンは忙しすぎて今回は力になれないということのようである。やむなし。また、近年出た済南ムスリム武術関連の良書として『済南回族武術』(2009年12月、済南市伊斯蘭協会)を手渡される。多謝。
2011.02.23(水)
快晴
場所:済南市清真南大寺
午後2時15分到着、一時半聞き取り開始
聞き取り手:黒岩(攻)、宮田(受)
インフォーマント:金述龍教長
黒:やあ、こんにちは(教長室に暖かく迎え入れられる)。
金:調子はどうだ?家族は元気か?
黒:家族とぼくはまあまあだ。あなたは?
金:もちろん元気だ。
黒:じつは今回はムスリム武術について調査しにきたのです。(宮田の方をみながら)彼(金)は、八極拳も摔跤も、六路短打もみんなできる。
金:若いころの話だ。八極、短打、摔跤の他、兵器もやった。
黒:兵器って何ですか?
金:兵器だよ。ほら大刀とかの兵器。
宮:あ、黒岩さん、兵器ですよ。
黒:ああ、兵器か。兵器はなにを学びましたか。
金:春秋大刀。
黒:春秋大刀?
宮:春秋大刀ですよ、黒岩さん。
黒:ああ、春秋大刀か。
黒:あなたはいつ武術を学びましたか。
金:学校(済南伊斯蘭経学院)に行っていた頃、他にもコーラン学、アラビア語、書法を学んだ。お前も知っているように、経学院ではコーラン学、アラビア語、書法を学ぶが、教育の一環として武術課がある。当時南京国術館の出身で1930年代に散打のチャンピオンになった、周子和がいて、私はその弟子だ。
黒:周子和先生はまだ存命中か、それとも死んだのか?
金:2002年か2003年頃になくなった。(金アホンの記憶違いか。『済南回族武術』によれば、周子和は1996年没)。
黒:それは大変残念だ。
宮:練習していた頃は、一日何時間くらい練習していましたか。三、四時間ですか?
金:学校の授業なのでそんなに練習しない。体育課で一時間くらいだ。授業の他に自己練習で一時間くらいやった。
宮:我々はムスリム武術だけに興味があるのではなくて、ムスリム文化全般について興味を持っていて、その一つとしてムスリム武術を取材に来たのだ。
黒:(金が怪訝な顔をすると)つまり我々はムスリム文化全般に興味があるが、その一つとしてのムスリム武術に興味がある。
金:その通りだ。回族文化に占める武術の位置は非常に重要だ。回族は大分散小集住で、同じ少数民族でも固まって住んでいるモンゴル族やウィグル族と違って、マジョリティーから侮りを受けることが多かった。だから身体を鍛えて強くなり侮りを受けなくなる必要があった。習武は弱小民族の自己防衛のためのものだ。元、明、清の頃、回族から出た有名な人物は、経済、体育、武術の方面で活躍し、とくに軍人が多かった。文人は少なかった。今はそうでもないが。
また伝統のものでもある。武術には××(伝統的健身方法)と××(伝統芸能としての)套路がある。コミュニティーの伝統だ。解放された後は、70~80年代にかけて、このあたりでは武術活動が発展した。つまり、70年終わりから80年代初めにかけては、多くの武館や体育社、××△などが設立されて習う者も教える者も沢山いた。
黒:今はあまり学ぶ者がいないと聞いたが、それはなぜか。
金:お前も知ってのとおり、国家の方針で一つの家に一人の子供しか持てない。若い子が少なくて、武術をやる人も少なくなった。家庭の親は一人っ子にそんな大変なことをさせたくない。(さかんに指を動かしつつ・ピアノ?PC?:宮注)勉強もしなくてはならない。そのため武術はなくなった。武術教師もどんどん習うものがいなくなって、悲嘆にくれている。そのうち武術は失伝するだろう。
黒:今も武術を教えている人がいるのか。
金:いるよ。一人は摔跤名家の子供だ。もう一人は武術をやる。この方面の資料は非常にすくないのだが、去年『済南回族武術』という専門書が出た。今どこにいったか分からないが探してあげよう。
黒:その武術家たちを紹介してもらえるか。
金:いいだろう。アンパイしてやる。お前たちはいつまで済南にいるのか。
黒:あと3、4日いる。
金:あと4日か。いいだろう。
宮:紹介してくれる人二人の名前を教えてくれないか。
金:紹介できる者は沢山いる。複数だ。その内の主要な人物は二人で、一人は馬連年だ。もう一人はう~ん、馬連年が知っているだろう。
黒:馬連年は馬清宗の息子だな。
金:よく知ってるな。
黒・宮:よろしくお願いします。
2011.02.24日(木)
晴
シュワイジアオ(摔跤)調査
場所:済南市清真南大寺
午前9時30分到着、9時40分聞き取り開始
聞き取り手:宮田(攻)、黒岩(受)
インフォーマント:金述龍教長、馬連年老師
宮:今日紹介して下さるのは馬連年さんですか?
金:そうだ。彼は摔跤大師馬清宗の息子で、本人も摔跤の名士である。また国家級審判でもある。彼は武術界の重要人物であり、沢山の人々が彼に摔跤を習っている。
(しばらくすると馬連年先生登場)
宮:まず、はじめに、あなたの経歴をお聞かせ下さい。
馬:私は武術世家の出身で、祖父(未確認だが、馬子英のことらしい)は武術名家で大変素晴らしい使い手だった。民国初年武術を教えていた。辛亥革命の後、清真南大寺に武術学校があって、そこで武術を習った。彼の先生は大アホンである。
黒:その大アホンである先生は誰ですか。
馬:楊洪修(正しくは楊鴻修か?)だ。その本(『済南回族武術』)にも載っている。
黒:おじいさんは摔跤の他にどんな武術を教えていましたか。
馬:彼は色々なことができた。例えば査拳とか。日中戦争の頃、日本軍がやってきて済南を攻撃した。かれは旅団長で拳銃もうまかった。その後、山東省のカンフクキョの総教練(柔道家)をたおした。日本人がいなくなってから、曲阜にいって武術を教えていた。彼には名声があったから教えを乞う人は沢山いた。済南に戻って来てから死んだ。日本軍が友人を通じて彼を毒殺させたのだ。だから父親は日本軍が大嫌いであった。
日本軍は済南を占拠していた時、その辺の中国人を脅して荷物を奪った。祖父は非常に背が高く(190cmくらい)目立った。日本軍に呼び止められ、荷物を取られそうになったが、彼は荷物を持っていなかった。それで怒った日本兵が銃床で祖父の脇腹を殴った。しかし祖父の肋骨は閉じられていたので、無事だった。ほら普通の人間の肋骨はこうだろう(五指を開いて見せる)。しかし祖父はこうだった(五指を閉じて見せる)。
黒:それは武功でそうなっているのか。
馬:そうだ。
黒:彼はいつなくなったのか。
馬:1944年2月~3月のことだ。
馬:うちの家族は、教育がなく長兄もおばさんもみんな武術をやっていた。今、大通りになっているところに公園があって、そこで練習し、教えていた。私のおばさんは、全国女子散打試合で優勝した。
黒:(話を一度きり、)あなたはいつごろから武術を始めましたか。
馬:武術世家に生まれてきたので、小さいころから武術を見てやっていた。
黒:それは5~6歳の頃からやっていたということですか。
馬:いや、何歳ってことはないよ、まわりはみんな武術だもの。ああ、12歳以降本格的に始めたかな。私の父は素晴らしく、50年代ずっとチャンピオンだった。柔道の選手やソ連のチャンピオンと○○××に勝った。
黒:あなたの父や祖父は回族だけに教えたのか。それとも漢族にも教えたのか。
馬:漢族にも回族にも教えた。師範学校で教えていたので、当然そうなる。回族文化のよいところは、融合的なところである。回族や漢族の区別は立てないのだ。もちろん、中国では清朝の時代回族は酷い迫害にあった。その頃の回族は自衛のために武術を教えなかったかもしれないが、解放以降は少数民族の地位も向上し、いまではそのようなことはない。
全中国の少数民族の地位を向上させ、今のようにしてくれたのは毛沢東である。
馬:私は中学を卒業後、北京体育大学へ進んだ。写真を見せながら。これが私の大哥だ。大哥も北京体育大学で学んだ。
黒:北京体育大学では何を学びましたか。
馬:国際式レスリングと中国式摔跤だ。(別の写真を見せながら)これが父で、これが北京大学の先生で、やはり回族だ。この人が私の先生だ。その後済南に帰って来て、プールの管理人をやりながら、空き時間に摔跤を教えた。その頃は、国家に体育活動を停止させられていた。しかし自主練習は続けていた。試合がないと張り合いがなかったが、健康のために続けた。94年になると、ここで体育クラブを作り、摔跤を教えていた。
全国の少数民族の大会があって、これは四年ごとに行われる。第一回は1953年に行われたが、父馬清宗はその第一回目のチャンピオンである。1949年から60年ころまでは、南京国術館の卒業生が活躍し多数の人材が輩出されていた頃なので、当時チャンピオンだったということはすごいことなのだ。父は素晴らしい。
宮:済南回族の摔跤はとても強いと聞いているが、漢族の摔跤と比べて回族の摔跤はどんな特色があるのか。
馬:我々がやっているのは中国式摔跤であって、もちろん清代にもあったが、近代以降にできたものである。色々な民族に色々な摔跤がある。モンゴル族のブフがあるし、チベット族のボカがあるし、日本の柔道があるが、様々な摔跤と交流した。中国式摔跤には沢山の技があり一番である。
金:近代以降における摔跤の発展とは、野蛮から文明(健身)への変化である。例えば、昔の摔跤は相手を傷つける技術があったが、今は技が洗練され相手を傷つけるものではなくなった。
馬:それに勝ち負けもはっきり分かる。三点がつくと負けである。それに反して柔道はどっちが勝ったか我々にはわからない。例えば柔道にはDABEI××(後に背負い投げだとわかる)があるだろ。あれは膝をついて投げるが、中国式摔跤ではあれは反則である。そこで負けてしまう。(黒が怪訝な顔をすると)
馬:DABEI××(不明だが、言葉からすると、一本背負いに対する通常の背負い投げか)だよ。柔道にはDABEI××があるだろ。これ日本語だろう?
黒:DABEI××?
馬:(体落としのような技をやって見せながら、)こういう時に摔跤では膝をついてはいけない。
金:(やはり体落としのような技をやって見せながら、)摔跤ではこういう時に膝をついてはだめなのだ。
馬:昔の摔跤の技術には危険な技があった。例えば、こうやって(脛外側足首の上)蹴ると容易に骨が折れる。今の若い人たちは、そういう技術を知らない。
金:済南のムスリムには千年以上の歴史があり、摔跤にも千年の歴史がある。もちろん千年の間に技術的向上はあったろうが、清代以降に様々な摔跤と交流した。(その結果現在の洗練された摔跤ができた。)馬清宗と馬連年は、近代以降の済南武術界の太陽なのだ。
黒:1970〜80年代は摔跤を教えていなかったのですか。
馬:1980年代はこのあたり(南大寺裏手。以前は公園・院子だった)で摔跤を教えていた。家が近くなんでね。授業料はただだったし、漢族回族を分けずに教えた。拉滑車などの練功法を行っていた。
金:ほらこの辺りは回民小区だから。
黒:ところで、先ほどのDABEI××は本当に日本語ですか。
馬:だと思うが。だって柔道の技だろう。
黒:(おもむろにかっぱを脱ぎ、宮を相手に試演する)こういうのですか?
金・馬:おお、それだ。それは膝をついて投げるんだろう。
黒:(試演しつつ)こういう風についてしまうこともありますが。
馬:そうそうそれは摔跤では反則なんだ。(柔道でも、膝をつくのはもともと反則)
黒:摔跤ではなぜ膝をつくと反則なのですか。
馬:柔道は投げたあともやるが、中国式摔跤は立ったままでパッと決めなければならない。
2011.02.27(日)
雪
シュワイジアオ聞き取りその2
場所:済南市清真南大寺
午後2時30分到着、2時40分聞き取り開始
聞き取り手:宮田(攻)、黒岩(受)
インフォーマント:馬連年老師、騰富友教練ほか2名教練、金述龍教長
(清真寺境内に絨毯を敷き、表演を見せてもらう予定だったが、前日からあいにくの雪となり、急遽応接室で面会することに)
宮:近代以降、摔跤は発展しまた変化したと聞きます。例えば、近代摔跤は危険な技術を捨て去ったとおっしゃいましたが、それ以外に変化はありましたか。
馬:清代以前の摔跤の技術はすべて危険なものだった。しかし清末民初以降、そういった技は必要ではなくなり、摔跤は体育になった。体育になるとは、つまり健康のために行うということだ。無論、今の摔跤も危険な使い方もできる。
(体育的要素について)例えば、摔跤にはこういった(手をグーパーしながら)基本功がある。これは握力を鍛えるために行う。こうすれば握力は増進するし、突き指もしなくなる。前腕部が太くなるんだ。日本人はマージャンをやるか?
黒:やります。
馬:これをやれば、じゃらじゃらがうまくなる(おじさんジョークの類)。
黒:あっはっは!
馬:それに歩法も大事だ。(教練相手に示演しつつ)たとえば、摔跤は離れていては投げられない。近づいてなげるのだが、もみ合いながら近づくというのはだめだ。このようにして、相手の懐に入る。
宮:(教練の一人に)あなたの経歴を伺ってもよろしいですか。
騰:かまわない。私は騰富友。49歳だ。
宮:武術の経歴をお聞かせ下さい。
騰:9歳の時、武術を始めた。長拳だ。20歳になって重量挙げの選手になり、山東省で第二位になったことがある。22歳で馬老師について摔跤を始めた。84年、陳式太極拳を始めて、全国大会推手部門で第3位になったことがある。
(騰:推手をやると、こういう押したり、引いたりに対して敏感なるから良いんだ。)
宮:職業は何をなされていますか。
騰:今は山東宏図三胞公司で働いている。PC関連の会社だ。知っているだろ?
宮:すみません、しりません。
騰:知らないのか?(有名な会社なのに)。
馬:(技術講釈の最中突然)私の父は16歳の時に、お前も知っていると思うが、このあたりに駐軍していた日本軍人を投げ飛ばしているんだ。そいつは軍曹だった。軍曹といえば、小隊長クラスか?そいつが、我々の練習場にやってきて、ケンカを吹っかけて来た。父は16歳だったにも関わらず、そいつの試合のもとめに応じて、投げ飛ばしてしまった。我々が武術をやる目的は、これだ。つまり、我々は他人を侮らないが、他人にも我々を侮らせないためなのだ。こちらもお前らを馬鹿にせず、そちらも我々を馬鹿にしなければ、平和でいいだろう?
黒:馬連年老師の同族の方はバスケ選手としても有名なようだが、なぜだ。
馬:なぜそれを知っている?
宮:えー、インターネットでみました。
馬:(取り出した新聞紙を示しつつ)この「藍球教父」とは私の弟(実際には従弟)だ。
金:彼は国際チームの監督で韓国遠征も率いていた。
黒:なぜ、馬家ではバスケットボールもやるのですか。
馬:それは馬家が体育世家だからだ。全家みな摔跤とバスケができる。どちらを専門にするか選ぶのだ。馬清宗も子供の頃、バスケを練習した。みんなバスケで遊ぶのが好きだったのだ。
黒:「摔跤に武術を加えれば、練習するほどに技芸が高くなる」といいますが、技術面で摔跤と武術の関係はどういったものなのでしょうか。
馬:もともとまず武術を習い、それから摔跤を習うものだった。しかし、国家がこの二つをわけてしまった。武術は技術を伸ばし、健身に役立つ良いものだ。しかし、武術は摔跤に及ばない。それは、武術は実用に耐える技量を身につけるまでに時間が長くかかるからだ。世に「武術を三年やっても、摔跤を一年やるのに及ばない」というのは、このことをいっている。摔跤は功夫が早くつくのだ。無論、摔跤も武術から生まれたものであり、両方やるにこしたことはない。
宮:摔跤の蹴りと武術の蹴りは違って見えますが、どんな差があるのでしょう。
馬:違うところもある。例えば、摔跤の蹴りは力が一層強いし、また上げ下げのスピードも速い。「軟」なだけではだめなのだ。それに摔跤の蹴りは「活」、「快」が求められる。武術の蹴りも「快」を求めるが、複雑にすぎる・・・。摔跤にはああいった見せ技はない。
金:ところで、お前たちは(日本の武術だけではなくて)中国の武術もやるだろう?車に乗っているときに?玉泉(ホテルの名前)の裏でお前たちが推手をやっているのを見た。ああ、この人たちは中国武術の愛好者なのだなあと思ったんだ。あれは、太極拳の推手だろ?ちょっとやって見せてよ。
黒:いやあ、大した功夫もないから。
金:宮田氏と二人でやっていたのは、歩法も使ってなかなか素晴らしいものだったじゃないか。
黒:困ったなあ、下手なんですけどね。
宮:僕らの推手はみっともないものなんですけどねえ。
一同:(黒、宮の推手を見て)。ん?これ推手なの?こんな推手はないよ。
金:日本は日本式のこうゆう太極拳があるのかな?
一同:いや、そんなことないだろ。
黒:これは太極拳の推手ではありません。形意拳の推手です。
一同:しらないなあ。
馬:東北地方の形意拳じゃないのか?
騰:見かねたのか、宮田と少し片手推手で手を回してみる。
黒:あ、僕がやりますよ。
騰:黒の足位置を直し、片手推手を少し回して、おもむろに四正推手に入り、推手って言うのはこう。
騰:(アドヴァイスをしようとして、やや業を煮やして宮、黒に)お前ら2人でやってみろ。(宮の指を直しつつ)こうゆう風に先に導く力がなくてはならない。
黒:今、聞き逃したけど何を直された。
宮:多分、黒岩さんじゃなくて、僕のほうのことなんじゃないかと。指力のことだと思います。
黒:(指を伸ばしつつ)ああ、これね。
※後ほど宿に帰ってから復習。宮田も納得。
(中略)
黒:私は、空手や柔道などの日本武術を学んだ後、柔道などに比べて中国武術は優れていると感じたので、21歳ぐらいから陳式太極拳を学び、その後、形意拳を学んだ。
馬:柔道の後に中国武術を学ぶのはいい。しかし、中国の武術は、この地に適している(中国人に適している。黒岩、やや気分を害する)。
騰:じゃあお前は、陳式太極拳が打てるんじゃないの。
黒:いやあ、10年近く前だし、その後形意拳に専念したから。
騰:(残念そうに)ふーん。
金:今日来てくれたのはみな馬老師の教練だ。彼らはみな「民間武術家」だ。
黒:え、民間ですか?あんなに成績があるのに。
金:そうだ。たとえば卓球の選手でもそうだが、いい成績をあげて、ナショナルチームに所属しないのであれば、その人は民間の卓球選手だろう。それと同じだ。
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