2013年6月12日水曜日

吉澤誠一郎(研究分担者)「コミュニティ、エスニシティ、フィールドワーク」

コミュニティ、エスニシティ、フィールドワーク
                         吉澤誠一郎

 今回の科研調査は、主に河南・山東などの回民コミュニティを回り、碑文をはじめとする歴史文献を実地に求めるとともに、聴き取りを行なうというものであった。ここでは、その観点や手法について反省的にふりかえってみたい1
 私は、今回の科研も含めて過去10年ほどの間に、多くの中国ムスリムのコミュニティを訪れる機会を得た。最も頻繁に訪れたのはモスクであった。中国ムスリムは、おおむねモスクを含む一定の地区に集まって住んでおり、このコミュニティの中核をなすのはモスクであると、ひとまず考えられる。今日では中国都市の再開発が進み、天津の老城西北角のように旧来のムスリム集住地区が大きく変容させられた事例も珍しくない。しかし、歴史的には、そのようなコミュニティが中国ムスリムにとって重要な生活の場であったと考えてよいだろう。それは研究史のなかで「中国のイスラムの共同体または清真寺共同体」2と呼ばれたことがある。
 しかし、そのコミュニティが、とくにモスクとの関係でどのような構造をなしているのか、または構造といえるほど緊密なまとまりと言えるのかどうか、といった問いについては、いまだ十分な回答は得られていない。現状については一定の知見が得られるとしても、歴史的な分析は難しい。
 回民コミュニティは確かにモスクを宗教的な中核をなすと見ることができる。モスクのアホンは、当該コミュニティの信者組織によって招聘されて着任し、その地区の宗教的な生活において重要な役割を果たす。しかし、一つのコミュニティに二つ以上のモスクがあるのは普通のことである。このように複数のモスクがある理由は、単に現在の機能的な必要だけでは説明しきれず、過去の宗派的な対立などの歴史的な経緯をたどることによって初めて理解できる場合も多い。
また、コミュニティを成り立たせる要素として、むろんモスクの存在は決定的な重要性を持つのだが、アホンの招聘をはじめとして、その運営にあたる信者組織(郷老)の意味は大きい。社会史的な観点からすれば、この信者組織について、いっそうの探究が不可欠であろう。今回の調査で訪れた山東省の小金荘では三掌教の制度が機能していて、伊瑪目は金氏、海推布は馬氏、穆安津は周氏が世襲するという形になっていることがわかった。宗族とコミュニティ運営が密接に結びついているのであり、このありかたは100年、200年と遡る可能性がある。小金荘コミュニティは一つの自然村落がほとんどムスリムによって占められるため、このような形態が続いてきたという特殊性があるのかもしれない。他方で、都市部では、どのような形で信者組織が運営されてきたのか、我々の知識はまだ不足している。
モスクごとに信者の組織があるとすれば、複数のモスクがある場合には、ひとつのコミュニティ(と見えるもの)は実はモスクごとに別途に編成されているということになるのだろうか。簡単にそういうべきではない。確かに、信者がどのモスクに通うのかということは、宗教的な生活においては重要なことではあるが、モスクごとに生活全般が分かたれているわけではなく、やはりムスリムの集住区としてのコミュニティが大きな意味をもっているからである。このように考えてみれば、そのコミュニティという概念について、改めて反省しながら、より立ち入った議論をすることも必要であろう。
 概念の反省といえば、民族やエスニシティという視点についても我々は常に問い直していかねばならない。中華人民共和国では国家の基本的な構成要素として「民族」の範疇が設定されていて、中国公民はみな身分証に民族籍が記入されている。むろん、そのことも現在の人々にとって意味をもつ局面はあるが、私が知りたいのは、それだけではなく、より広範な社会の現実なのであり、それをエスニシティなど称することもある。「回民」という中国語がよく使われるのは、「回族」というのでは表現しきれない何かのリアリティがあるからだと私には思われる。ムスリムであることと回族・東郷族・保安族・サラール族といった民族籍をもつこととも間にも一定の緊張があるし、また、この調査以前に雲南省ではぺー族のアホンにも会ったこともある。
 私のような歴史学者は、このようなエスニシティを通時的に変遷するものとして把握しようとする傾向が強い。しばしば、他の研究視角をとる研究者の間では、「本質主義」と「構築主義」という二項対立で議論を進めることが多いようである3。ときに、先行研究の整理においても、エスニシティについて「本質主義」と「構築主義」という見方の相違を指摘することがある。しかし、私にとっては、エスニシティが歴史のなかで「構築」されてきたというのは自明のことであり、そのような論点整理そのものが奇妙とも感じられる4
しかし、それは研究者としての外部の視点にすぎない。逆に、民族の自己認識の重要性を強調する指摘もある。楊海英は、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」論を批判して「民族を「想像」の視点で研究する場合、その「民族」形成の歴史的プロセスと当事者たち自身の認識を否定しかねない政治的危険性が潜んでいる」5と述べている。むろん、楊は民族形成の動態性を強調しているので、必ずしも「本質主義」にくみするわけではないが、何より当事者の認識を重視すべきだという主張は、理論家の「本質主義」と「構築主義」といった区分をはねかえす強さを有している。
 我々の調査は、モスク訪問に大きな重点がある。アホンは地元コミュニティの人ではなく、あちこち移動しながらイスラーム教学を修めてきたことから、視野も広いのだが、当然ながらイスラームの普遍性を前提とした発想を持っている。このようなアホンの存在(そしてイスラーム教学を志す弟子マンラー)は、地理的に分散しているムスリムのコミュニティをつなげていく一つの大きな紐帯となっている。しかし、このことが、河南や山東の回民、甘粛のサラールや東郷といった人々のエスニシティ形成にもつ意味については、まだ深く考えてられていない課題といえるだろう。新疆においても、地元のウイグルの人々と移住してきた(または移住させられてきた)ムスリムの人々は必ずしも同じモスクに集うわけではなく、イスラームの普遍性ということでは、エスニシティの現実はとらえきれない。
 他方で、昨今の交通手段の発達やインターネットの普及は、巡礼のためのサウジアラビア訪問、国際的なイスラーム主義思潮の普及など、ある種の思念された共同体としての「イスラーム世界」の観念を中国のムスリムにも注ぎ込んでいるともいえるだろう。これもまた、現今のリアリティとみなすべきである。
歴史的にも、少なくとも20世紀前半における中国イスラームの復興運動には、国際的な契機が大きく関係してきた。ウイグルの民族意識が20世紀の産物であることはよく知られているが、実は、中国ムスリムの改革運動も、20世紀中国の民族主義に加えて、国際的なイスラーム復興と関係した歴史的な経緯を持っているとみてよい6。そして、これがコミュニティのあり方とどのような関係にあるのかという点の解明が必要であろう7
 さて、最後にフィールドワークと歴史学研究の関係について見てみよう。概して、フィールドワークを主要な方法論とする研究者から歴史学者への眼差しは厳しい。ただし、私の見る限り、(意識的・無意識的な)誤解に基づく不適切な批判も散見される。
それにしても、やはり考えていかなくてはならない論点は山積している。最大の問題点は、フィールドワークをどのように歴史学研究に生かしていくべきかについて、十分な共通理解が無いことだろう。
 この点、近年、江南地域のフィールドワークを精力的に進めている太田出と佐藤仁史の主張には、傾聴すべき点が多く含まれる。太田・佐藤らの調査は、現地でないと得られない文献の入手という側面も有しており、地方文献の発見と景観調査そして現地の人々からの聴き取りを総合的に組み合わせようとしている。まだ進行途上の研究なので、その成果の全貌について論じるには時期尚早かもしれないが、彼らがフィールドワークについて述べていることは、真摯に議論していくための出発点として非常に有意義である。
 太田が指摘するように、1980年代半ば以降、日本の歴史学者が江南でフィールドワークを開始した学問的理由は、「文献資料に依拠しながら描出されてきた歴史世界があくまで文字を駆使しうる知識人層の認識する世界であり、小農民の世界、すなわち「非文献」の世界を表現しようとすれば、文献資料のみでは十分でなかった」8という認識に求められる。それを踏まえ、今後の地域社会史研究は、「文献資料に依拠する理論研究と、フィールドワークによる景観調査・口碑資料収集に依拠する実態・事例研究を並び進めながら、一方で二つの方法論のせめぎあいと相互補完関係を試みる中で構築されていく必要があると思われる」9と太田は提言している。このような点は、ムスリム調査を行なう我々にも共感できる姿勢であろう。
 今後、大いに議論していくべきことは、フィールドへの入り方とそこで得られた情報の使い方、そして現地の人々とのつきあい方といった具体的な事柄である。ここではひとまず、どのようにフィールドに接近するかということのみ考えてみたい。
 佐藤・太田らの方法は、個人的な関係による接近である。過去の学者による調査では、地方政府や社会科学院と折衝して受け入れてもらうという方式が多くとられたが、彼らのグループは「現地協力者や郷土史家との間に築かれた友人としての関係を通して口述調査を実施した」。この方法は「偶然性に依拠していて極めて非効率的であるという問題点を有するものの、インフォーマントにたどり着くまでの人間関係や彼らが置かれた立場を慎重に吟味する必要があるため、却て基層社会の理解に裨益することも多いように思われる」という10
 これは、我々のムスリム調査が、地方政府や公式の研究機関と関係なく進んできたのと同様であり、ここで佐藤・太田がいう意味も私には理解しやすい。とくにムスリムのコミュニティにおいては、モスクが重要な役割を果たしていることは疑いないから、まずモスクを訪れることは自然な勢いである。何らかの紹介を得て訪れることもあるが、全く飛び込みの訪問でもアホンにきちんと応対してもらった事例は数知れない。これには、いくつかの理由があるだろうが、やはりアホンは地元民ではなく、比較的広い社会を見てきて学識も積んでいるから、「中国のイスラーム文化に関心がある」と称する日本人に対しても比較的容易に接点をもつことができるからだろうと、私には感じられる11
 他方で、アホンは、地元コミュニティにとっては外来者である。アホンは確かに当該コミュニティの宗教的生活の全般に目を配っているはずだが、しかし、もしコミュニティの歴史について深い理解を得ようと思うならば、やはり地元民からの聴き取りをさらに深めていくことは不可欠であろう。
 もう一つ留意すべきこととして、外国人なかでも日本人が調査を行なうことについて、とくに困難な点があるかどうかという点がある。日本人が漢語を用いて調査すると、ムスリムたちは中国の漢族と区別がつかず、まともに回答しないだろうといった批判もあるが12、その指摘は現実には全く的はずれといってよい。むしろ、私が懸念したのは、過去の日本の侵略がムスリムのコミュニティに与えた被害のことである。たとえば、開封で聴き取りをすると、しばしば半世紀以上前の洪水のことが出てくる。個人史のなかでも、つらい記憶と結びついている場合もある。これは実は、1938年に中国軍が黄河を決壊させることで、日本軍の侵攻を防ごうとした事件を指している。日中戦争によって洪水が引き起こされ、多くの人命が失われたのである。また、華北都市では、日本軍の占領のもとムスリムのなかから対日協力者となった者もいたであろうが、彼らが日本の敗戦後に被った苦難についても、調査に当たっては十分に意識しておくべきであろう。
我々の調査は「ゲリラ・フィールドワーク(guerilla fieldwork)」と揶揄されたこともある13。このような方法が真に望ましいものかどうかは、まだ確言できないが、太田・佐藤の方法論にも学びつつ、まだ視野を拡げていく可能性は残っていると考えられる。そして、コミュニティやエスニシティなど理論的な概念についても、あくまでフィールドから深い吟味を加えていかねばならないと思う。








1 本稿は、拙稿「社会史」岡本隆司・吉澤誠一郎編『近代中国研究入門』(東京大学出版会、2012)の記述を補うという意味がある。あわせて参照されたい。
2 佐口透「中国ムスリムの宗教的生活秩序」『民族学研究』134(1948)331頁。
3 たとえば、上野千鶴子編『構築主義とは何か』(勁草書房、2001)
4 このように「本質主義」と「構築主義」を対照させる整理法の不可思議さは、このような対照を行なう論者はほとんど後者の立場をとっていることで、「本質主義」者を自称する人があまりいない点にもある。
5 楊海英『モンゴルとイスラーム的中国』(風響社、2007)26頁。
6 中国におけるイスラーム復興思想と近代主義については、佐口透「中国イスラムの近代主義」『金沢大学法文学部論集』史学篇16(1969)、中国ナショナリズムと「回族」意識については、安藤潤一郎「「回族」アイデンティティと中国国家──1932年における「教案」の事例から」(『史学雑誌』10512, 1996)参照。
7 開封のコミュニティについての注目すべき考察としては、王柯「重層的社会におけるアイデンティティの形成少年時代の白寿彝と開封」『中国研究月報』532(1999)
8 太田出「中国地域社会史研究とフィールドワーク近年における江南デルタ調査の成果と意義」『歴史評論』663(2005)56頁。
9 同前、60頁。
10 佐藤仁史・太田出「序論」佐藤仁史ほか編『中国農村の信仰と生活太湖流域社会史口述記録集』(汲古書院、2008)9頁。より詳細には、佐藤仁史・太田出「太湖流域社会史現地調査報告外国史研究者とフィールドワーク」『近代中国研究彙報』30(2008)参照。
11 また、モスクの近くで開業しているイスラーム関係用品店もよく訪れてきたが、彼らも商売柄、見知らぬ者と接触をもつことに抵抗感が少ない存在でもあったと言えるだろう。
12 B. J. ter Haar, “BoekbesprekingenArabica,” Bibliotheca Orientalis, vol. 63, no. 5/6, 2006, p. 620.
13 Ibid.

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