2013年6月12日水曜日

古市大輔(連携研究者)「中国回民コミュニティ雑感――清代マンチュリアの回民社会に関する歴史的検討の可能性にも触れながら」

中国回民コミュニティ調査雑感
――清代マンチュリアの回民社会に関する歴史的検討の可能性にも触れながら
古市 大輔

筆者は,本研究課題「近代中国における回民コミュニティの経済的・文化的活動」において連携研究者として参画し,20097月~8月にかけては河南省(開封・鄭州),20108月には山東省(済寧・済南),そして20128月には甘粛省(蘭州・臨夏)におけるそれぞれの回民社会・コミュニティに関する調査に参加する機会を得た。
筆者の研究分野,ならびに研究方法・対象は主に,清代後期のマンチュリア(満洲,現在の中国東北部)における歴史研究であり,これまで,ほぼ档案類などの歴史文献に依拠しつつ,当該地域に対する清朝の政治制度・諸政策の検討を通じて,清代後期のマンチュリアにおける歴史的変動を解明しようと試みてきたi
したがって,本研究課題に参加した他のメンバーに比べ,本研究課題の内容と筆者がこれまでに試みてきた研究内容との間にはいささか隔たりがあり,そのため,正直に申せば,筆者が本研究課題において得た知見はあるいはさほど大きなものではないかもしれない。ただ,そうしたいささか「門外漢」である筆者の立ち位置はむしろ,様々な比較という観点・視点を提示する余地を持っており,それによって,本研究課題から得られたその知見の持つ意味や今後の議論の方向性・可能性を,いささか別の視点から提示できるかもしれない。筆者が本稿で記す内容の持つ意味・意義は,むしろその部分に求められているものと筆者は考える次第である。
まず,筆者が参加した3度の調査で得られた知見や感想を述べておきたい。
1)当然のことではあるものの,3地域の回民コミュニティはいずれも,回民としての慣習・作法・アイデンティティを維持して生活しており,人口的・政治的にマイノリティである回民コミュニティのその強い持続性をあらためて体感することができた。
 2)ただ,特に華北の2都市と甘粛との間に顕著なものであるが,そのそれぞれの回民コミュニティの間には,その宗派,作法,さらにはコミュニティの規模などに大きな差異があり,それらは回民コミュニティと大きく括って理解するよりもむしろ,「清真寺」あるいは「ゴンベイ」ごとの小単位でのコミュニティの具体性・独自性として理解するほうが相応しいということである。こうしたそれぞれの回民コミュニティの具体性・独自性を,筆者はこの調査に参加することで遅まきながら体得したように思う。
 3)また,このことが回民が回民たるその所以かもしれないが,平時には,彼らの回民としてのアイデンティティは,ムスリム(あるいはムスリマ)としての一体性を強調するものというよりはむしろ,彼らが居住する都市,あるいは彼らの生活の核になる「清真寺」や「ゴンベイ」ごとのまとまり以上のものではない場合が多いのではないかということである。彼ら回民は,実際の都市生活を維持するために必要かつ十分な範囲で柔軟に対応しているように筆者には見受けられたが,各地域の回民社会のこうしたスタンスに筆者はむしろ強い印象を受けた。
 4)さらに,特に甘粛で強く感じたことではあるが,現在の回民コミュニティが,当然ながら,現在の中国政府・共産党や地方政府との関わりなしに維持できないという現実である。ただ,筆者の眼に映り,強い印象を受けたのは,その否定的な側面ではなく,むしろそうした政治性を「利用」しつつ回民コミュニティを維持しようとする回民指導者たちのスタンスのほうである。他方,中国政府・共産党や地方政府もその回民指導者をある程度制御することで,当該地域における自身の政治的権力の所在を明らかにしつつ,回民コミュニティの一定程度の「自治」を容認しているという構図を作り上げている。もちろん,こうした中国における為政者(国家)とコミュニティ(社会)との関係性は,現在の中国で始まったものではなく,皇帝専制体制時期にも伝統的に存在していたものであったように思われ,そうした関係性の,長く,そして強い持続性のほうに筆者はむしろ強い印象を受けた。
 5)民族学(人類学)的な調査においては当然のことかとも思うが,本研究課題の目的の一つには,そのコミュニティの現況だけでなく,彼ら回民のアイデンティティや認識のありかたなど,現存する歴史文献からは読み取れない部分の調査が目的とされていた。この調査は,筆者のこれまでの回民観が他者(つまり,為政者であった清朝やマジョリティとしての漢族社会など)の目を通した一種ステレオタイプ的なものであり,彼ら自身の認識や,その地域的な差異,並びにその具体性・独自性にあまり注意を払ってこなかった筆者の認識に大きな修正を加える,その一つの契機となったものと感じている。
 以上が本調査から得た素朴な感想と僅かばかりの知見である。「門外漢」としての感想・知見であり,また,それを差し引いてもまだ甚だ稚拙かつ物足りなさを感じるところかもしれないが,以下では,そうした知見や印象に基づき,もう少し踏み込み,清代マンチュリア史を専攻する筆者の現在の興味関心や研究領域との関わりにも触れながら,研究メモのようなかたちで今後の課題・展望として,いくらかの指摘を加えておきたい。
 第1に,清朝国家による少数民族(回民などのマイノリティ)政策と,清代マンチュリアにおけるその具体的様相に関する検討の可能性についてである。本研究課題では実現しなかったものの,現在の中国東北部で生活する回民の調査が可能になれば,おそらく本研究課題で調査をおこなったそれぞれの地域の回民コミュニティとも異なる回民像を映し出すはずであるii。上述の2)や3)で指摘した回民コミュニティの多様性はもちろんだが,4)で挙げたような中国政治と回民社会との関わりという視点に鑑みると,中国東北部における中国政府と回民コミュニティとの関わりなども大変興味深いところである。
そして,そうした両者の関わりを,筆者のこれまでの興味関心に沿いつつ,歴史的文脈のなかで捉えることも十分可能かもしれない。因みに,清朝国家はマンチュリアでは自民族である満洲族のほかにツングース系・モンゴル系諸民族に対する支配をおこなっていたがiii,では,そうした諸集団に対する少数民族支配に加え,マンチュリアにおける清朝の回民への対策は如何なるものとして理解すべきであり,かつ,清代マンチュリアにおけるその具体的様相は如何なるものとして説明し得るのだろうか。このことに対する検討の余地もまだ十分に残っているように思う。
また,この検討が進めば,いずれも当時は清朝版図の「周辺部」とも見なされていた,清代マンチュリアと特に回民の多かった「西北」地域との比較対照もあるいは可能になるであろうし,その比較によって,清代「西北」における漢回関係・漢回対立に関する理解に対しても何らかの寄与が可能になるかもしれない。さらに,清代マンチュリアの歴史を規定していた満漢関係に加え,当該地域のもう一つのマイノリティとしての回民の存在をそこに含めて論じることができれば,清朝国家と回民社会との関わり方の様相をより具体的に説明し得るばかりでなく,その関わり方の多様性や地域的差異をも紐解くことが可能になるだろう。
 第2に,清代後期の「周辺部」あるいは「辺境」地域の歴史的変動過程のなかでの少数社会(マイノリティ)の位置づけに関する検討の可能性についてである。19世紀後半の洋務運動期には,中国の「周辺部」あるいは「辺境」地域とみなされつつあった「西北」や雲南で漢回対立が顕著となっておりiv,当該地域の歴史における回民の位置づけに対する関心はこれまで常に高かったといえよう。とすれば,中国「西北」や雲南におけるこうした歴史的事象との比較を通じ,同様の視点から,同じく「辺境」地域であったマンチュリアにおける為政者・支配層たる集団(清朝や漢族社会)と回民を含む少数社会(マイノリティ)との関係性を踏まえたかたちで,清代マンチュリアにおける回民の意義に関する検討が可能になるかもしれない。
因みに,筆者は洋務運動期を含む19世紀後半のマンチュリアにおける歴史的変動とそれに強く関わった清朝の対マンチュリア諸政策についてこれまで研究を進めてきたが,現在は,その清朝の諸政策が同時期の中国他地域における諸政策と如何なる関連性・類似性を有していたかという比較史的な関心も持ってきているv。夙に様々な指摘があるように,清代マンチュリアにも確かに回民は存在・活動していたがvi,それでは,激変状況下の「辺境」地域の一つであったマンチュリアの回民社会の姿をどのように描き,また,清朝はその回民社会に対して如何なる対応をおこなっていたと説明し得るのか。さらに,回民の人々や社会のその振る舞いは,清代後期のマンチュリアにおける歴史的諸変動との関わりのなかでは如何に位置づけ得るのか。そして,その回民社会は,近代マンチュリアにおける地域社会の急速な形成過程のなかでどのようにしてその過程に対応していったのか。こうした様々な課題設定を,本調査からさしあたり想起できるのではなかろうか。
例えば,その議論の糸口としてさしあたり現時点で指摘し得ることとしては,清代マンチュリアにおける瀋陽の名士であった鉄氏一族や軍人の左宝貴などの政治的台頭などを,回民社会自体の変容とともに,清代マンチュリアにおける歴史的変動と関わらせつつ如何にして論じることが可能かという議論を挙げることができるが,このような点を手がかりの一つとして清代マンチュリアにおける回民社会の歴史的意義について具体的に検討することが徐々に可能になってくると思われるvii
 第3に,文献史学と民族学(人類学)的フィールド・ワークとを接続しつつ,それをマンチュリアの歴史研究や当該地域における回民研究に援用させる可能性についてである。
これまでに既に行われてきている様々な回民社会調査記録を前提に,本調査の手法を援用しつつ,現在の中国東北部における回民社会へのフィールド・ワークをあらためて行い,それを通じ,当該地域の回民社会の現状と歴史についての再検討を試みる余地はまだ十分に残っているように思う。因みに,20世紀前半の中華民国期や満洲国期のマンチュリアにおける回民社会については,近年,田島大輔氏や安藤潤一郎氏らによる精緻な研究がなされているがviii19世紀以前の時期,すなわち清代以前のマンチュリアにおける回民社会の歴史に関しては,中国「西北」や雲南と同様,文献資料が極端に少ないため,本研究課題のような民族学(人類学)的フィールド・ワークを通じた回民社会とその歴史の捉え直しの可能性や余地が十分に残されているものと思われる。
最後に,第4の可能性として,清代から近代以降に至る時期のマンチュリアにおける回民社会の変容について検討する際の視角の提示可能性についてである。近代中国における回民社会の変容は如何なる要因から説明しうるのであろうか。これまでの回民社会研究においては主にその宗教・認識・教育などの側面からの検討がまず進められてきたように筆者には感じられるが,商業をその主たる生業とすることの多かった回民の経済的活動とその変容のありようからも回民社会の変容を説明することが可能であろう。
因みに,清代のマンチュリアにおける商業・流通構造やそのルートなどに関しては,夙に様々な研究成果があり,また,マンチュリアへの漢人移民の歴史的展開という主題も,清代マンチュリアにおける社会経済史的な検討課題の中核とされ続けてきたix。こうした清代マンチュリアの社会経済史的文脈のなかに,マンチュリアにも浸透していった回民社会の動向は如何に位置づけられるだろうか。また,近代マンチュリアにおける社会経済史的変動はこれまで「河運・水運の衰退と陸運の台頭」として説明されることも多かったがx,こうした説明を援用できるならば,近代マンチュリアにおける商業・流通面での変容が当該地域における回民社会の生業や生活を如何に変化させたのであろうか,という問いも可能になってくるであろう。もちろん,そのことはマンチュリアという特定の地域に限定するまでもなく,清代までの中国における商業・流通構造やそのルートやネットワークが近代以降に如何に変化し,かつ,それに伴って回民社会が如何なる変動を遂げたのか,という課題としても設定することが可能であろう。そして,この課題は,中国における回民社会の歴史的変遷を総合的に捉える際の重要な一視点となるはずのものであろうと筆者は考えている。






i 近年の成果としては,さしあたり,「清末,中国東北における官制改革の推進と東三省建省――盛京将軍趙爾巽による盛京(奉天)官制改革案の位置づけを中心に」(東アジア近代史学会編『日露戦争と東アジア世界』ゆまに書房,2008年),「清代光緒年間の東三省練軍整備計画とその背景――1880年代前半における朝鮮問題との関わりを中心に」(弁納才一・鶴園裕編『東アジア共生の歴史的基礎――日本・中国・南北コリアの対話――』御茶の水書房,2008年),「『清実録』のなかの「東三省」の語とその用例・用法――18世紀清朝の対マンチュリア認識との関わりにも触れながら」(『金沢大学歴史言語文化学系論集 史学・考古学篇』42012年)などを挙げておく。
ii マンチュリアにある「回族」コミュニティとしては,その南部に位置する遼寧省の主要各都市(瀋陽を始めとする)にある清真寺を核とするもの,さらには,吉林省吉林市にその中核を持つスーフィー教派のゴンベイを中心としたものなどが多く現存している。
iii その概略については,杉山清彦「「大清帝国のマンチュリア統治と帝国統合の構造」(左近幸村編著『近代東北アジアの誕生 跨境史への試み』北海道大学出版会,2008年,第9章所収)などをさしあたり参照されたい。また,特に,黒龍江省や吉林省東部などマンチュリア北部における清朝の民族政策については,松浦茂氏や加藤直人氏,柳澤明氏らの各論考を参照。
iv 先駆的な研究成果としては,例えば,中田吉信氏や佐口透氏らの各論考があるが,清代の「西北」あるいは雲南における漢回関係や漢回対立の構図などについては,さしあたり,それら先駆的な成果に基づきながら近年その再検討を行っている黒岩高氏の各成果を参照されたい。例えば,「械闘と謡言―19世紀の陝西・滑河流域に見る漢・回関係と回民蜂起」『史学雑誌』111-92002年,および「「学」と「教」―回民蜂起に見る清代ムスリム社会の地域相」『東洋学報』86-32004年,などを参照。また,安藤潤一郎「清代嘉慶・道光年間の雲南省西部における漢回対立――「雲南回民起義」の背景に関する一考察」『史学雑誌』111-8, 2002年)も参考になる。
v 前掲注1,拙稿「「清代光緒年間の東三省練軍整備計画とその背景――1880年代前半における朝鮮問題との関わりを中心に」では,清朝が洋務運動期にマンチュリアでおこなった政治・財政・軍事面での諸改革の外在的要因の1つとして朝鮮問題を採り上げたが,そこでは,当時の清朝や華北(特に直隷省)における洋務運動との関わりについてもいくらか言及を加えている。
vi 清代マンチュリアにおける回民の歴史,あるいはマンチュリアにおける回民の淵源などについては,例えば,遼寧省瀋陽における回民について概観しているものとして,宋国強・姜相順主編『遼寧回族史略』(遼寧民族出版社,1994年)や,楊耀恩・王俊主編『瀋陽回族志』(遼寧民族出版社,1996年)などがある。
vii 例えば,前掲『瀋陽回族志』でも触れられているが如く,瀋陽鉄氏や左宝貴らについては夙に様々なところで紹介されており,すでに清代マンチュリアにおける回民の名家あるいは政治家・軍人としてしばしば言及されている。
viii 田島大輔「「満洲国」初期の回民教育問題――「満洲伊斯蘭協会」の事例を中心に」(『立命館東洋史學』32, 2009年),「「満洲国」のムスリム」(『アジア遊学」129<特集 中国のイスラーム思想と文化>, 2009年),「「満洲国」における回民墓地遷移問題-「建国」当初の事例を中心に」(『立命館文學」619, 2010年),さらには,Jun’ichiro Ando, 'Japan's 'Hui-Muslim Campaigns' (回民工作) in China from the 1910's to 1945: An Introductory Survey',(『日本中東学会年報」』18-2, 2003年)や安藤潤一郎「中華民国期における「中国イスラーム新文化運動」の思想と構造」(『アジア遊学」129<特集 中国のイスラーム思想と文化>, 2009年)などを参照。
ix 清代マンチュリアにおける商業・流通についての代表的な著作としては石田興平『『満洲における植民地經濟の史的展開』(ミネルヴァ書房, 1964年)があり,また,マンチュリアへの漢人移民の歴史的展開に関する近年の代表的な著作としては荒武達朗『近代満洲の開発と移民――渤海を渡った人びと』(汲古書院, 2008年)を挙げることができる。

x 筆者もかつてその紹介・書評をしたが(『社会経済史学』76-32010年),安冨歩・深尾葉子編『「満洲」の成立――森林の消尽と近代空間の形成』(名古屋大学出版会,2009年)は,マンチュリアにおける歴史的展開や近代化のありようについて,社会経済的な側面も含めつつ,総合的かつ理論的に捉えようとした意欲的な試みであり,清末から近代以降のマンチュリア史を捉えるための指針や理論を提示してくれている。ただ,こうした清代マンチュリアにおける歴史的展開を扱った成果においても,回民とその歴史的変遷に関してはあまり言及がなく,清代以降のマンチュリア史の動きのなかにそれらが含められて論じられることは,これまでほぼ皆無であったといえよう。

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