2013年6月12日水曜日

矢島洋一(研究協力者)「高麗とムスリム」

高麗とムスリム
矢島洋一

はじめに
 筆者は20113月に行われた本科研による広州・武漢調査に参加した。モンゴル帝国期のイスラーム史を専門とする筆者にとっての最大の目的は、広州懐聖寺に所蔵される「高麗人ラマダーン」の墓碑を実見することだった。ラマダーンは元朝の高麗人ムスリム官僚という極めて特異な人物である。310日に懐聖寺を訪れ、隊員諸氏の交渉と同寺アホンの厚意により、それまで写真でしか見たことがなかった同碑に首尾よく辿り着き調査することができた。同碑は宝物館のガラス棚の中に大事に立てかけられていたが、その横の床には他にもいくつかの碑石が無造作に置かれており、中には同じく元朝期に属するヒジュラ暦727年シャアバーン月末日(13277月)の日付を持つカースィム・ブン・アブドゥッラー・ブン・ザカリーヤー・イスファハーニーなる人物の墓碑もあった。翌11日には自由時間を利用して一人で広州博物館を見学した。すると館内の売店で売られている図録にラマダーン墓碑の拓本が掲載されているのを見付け、購入した1。同碑の拓本は旧版の図録にも載っていたが2、図版が小さく研究上の使用には堪えなかった。今回購入した新版の図録は同碑に丸一頁を割いており、大きさ・鮮明さ共に十分である。研究者に裨益すること大だと思われる。
 このラマダーンの墓碑については青木隆氏と共同でテキストと訳注を近く発表する予定であるが3、ここでは『高麗史』に見えるムスリム関係の記事を抜き出して、同碑の背景を考えるためのノートとしたい。

1. 大食人の到来
 朝鮮半島には既に三国~新羅時代には西アジアや中央アジアの文化が伝わっていた。正倉院白瑠璃椀や近畿各地の出土品と同様の西アジア製ガラス器は朝鮮半島からも複数出土している。また慶州鶏林路出土の装飾宝剣はカザフスタン出土品との類似が指摘されている4。文献上で西方から到来したムスリムの存在が確認できるのは高麗時代からで、『高麗史』には前モンゴル期の高麗に大食人が到来していた記事が三箇所に見える。

A】巻5 世家5 顕宗2 顕宗159月(1024年)[上1075
 是月、大食國悅羅慈等一百人來獻方物。
 この月、大食国の悦羅慈ら百人が来て名産品を献上した。

B】巻5 世家5 顕宗2 顕宗169月(1025年)[上108
 九月辛巳、大食蠻夏詵羅慈等百人來獻方物。
 九月辛巳、大食蛮の夏詵羅慈ら百人が来て名産品を献上した。

C】巻6 世家6 靖宗 靖宗611月(1040年)[上132
 十一月丙寅、大食國客商保那盍等來獻水銀龍齒占城香沒藥大蘇木等物。命有司館待優厚及還厚賜金帛。
 十一月丙寅、大食国の貿易商人である保那盍らが来て、水銀・龍歯・占城香・没薬・大蘇木などの品を献上した。官吏に命じて手厚くもてなし、黄金と絹を授けて手厚く報いた。

 大食は西方のムスリムを漠然と指す用語なのでこれらの大食人がどこから来たのか不明だが、献上品からしておそらく海上ルートで到来した商人だったと思われる。【B】のみ大食国ではなく大食蛮(一般には dānišmand の音写と考えられる)とするが、特に区別していたわけではなく単なる混用だろう。
 まずこれらの記事に見える人名の漢字音写は、漢語音と朝鮮漢字音の両面から検討する必要があるだろう。漢語音は11世紀なら後期中古音、『高麗史』が成立した15世紀なら近世音ということになる。朝鮮漢字音は資料の問題で15世紀以降の中期音しかわからない。以下に一般的な再構音により比較する6


漢語音
朝鮮漢字音
後期中古音
近世音
ハングル
中期音
悅羅慈
jyat la tsɦz̩
ɥɛ lɔ tsʰz̩
열라자
jəl ra tsʌ
夏詵羅慈
xɦjaː ʂən la tsɦz̩
xja ʂən lɔ tsʰz̩
하선라자
ha siən ra tsʌ
保那盍
puaw na xɦap
pɔw nɔ xɔ
보나합
po na hap

 これらをムスリム名の音写とするなら、いずれの音価をもってしても確実に原語を特定するのは難しいが、漢語音よりは朝鮮漢字音に基づく方がいくらか解釈しやすそうである。既にこれら漢字音写の原語の推定はイ・フィス(이희수)によって試みられている7。まずイは悦羅慈を al-Raza あるいは al-Raziとする。印刷上の都合か特殊文字記号が省かれているが、それぞれアッ・リダー al-Riḍā、アッ・ラーズィー al-Rāzī のことだろう8。どちらもありそうであるが、「羅」の母音が [i] ではなく [a] であること、「慈」の母音 [ʌ] は起源的には [i] である9ことから、Rāzī の方が可能性としては高そうである。また「悦」をイのように al- と考えても問題ないが、y 音が付いていること、下の「夏詵羅慈」には「悦」が付いていないことから、別の可能性も考えるべきかもしれない。ヤール Yār というムスリム名が最も合いそうであるが、この時代にはあまり一般的ではない。冒頭に一字欠落があると仮定すれば、アイヤールAyyār やハイヤート Ḫayyāṭ なども可能かもしれない。
 またイは夏詵をハサン HasanḤasan)とし10、羅慈は上と同じく Raza あるいは Raziとする。これは問題なさそうである。ただこれが「ハサン・ラーズィー」という一人の人名なのか、「ハサンとラーズィー」という二人の人名なのかは判然としない。
 一番の問題は保那盍で、何らかの誤記・誤写を想定しないとムスリム名としての解釈は難しい。イは疑問符付きでバラカ Barakah としており有力な一案だと思うが、他にもバナーカティー Banākatī、アブー・ナジーブ Abū Naǧīb、アブー・ヌーフ Abū Nūḥ、イブラーヒーム Ibrāhīm などもあり得るかもしれない。
 次に、【C】に見える到来品の流通状況についてまとめておく。

・水銀
 『高麗史』には他にもいくつか水銀献上の記事が見えるが、その多くは日本からのものである11。日本は古くから丹生鉱山(現三重県多気郡)をはじめ有力な水銀鉱山を擁しており、この時期にはまだ水銀輸出国だったが、その後国内生産量の低下と需要増によって輸入国に転落していった。
 一方イスラーム世界では特にアンダルスの水銀鉱山が古くから有名で、スペインは世界的な水銀規制の流れを受けて2004年にアルマデン(Almadén ˂ Arab. al-ma‘din)鉱山を閉山するまで世界最大の水銀産出国だった。アンダルスの水銀(辰砂を含む)は国際交易の商品でもあり、イスラーム圏・非イスラーム圏を問わず輸出されていたことは複数のアラビア語文献が伝えるところである12。アンダルスの水銀は地中海を経てインド洋にも齎されていたらしい13。大食人が高麗に献上したという水銀も、もしかしたらそういった交易ルートを経てユーラシアの西端から東端へとはるばる運ばれてきたものだったのかもしれない。

・龍歯
 龍歯とは大型哺乳類の歯で、薬物として使われていた。正倉院にもナウマンゾウの歯の化石「五色龍歯」が所蔵されている。ただし交易品としてはあまり一般的ではないので、ここでは象牙を指す可能性もあるか。

・占城香
 占城は中部ヴェトナムのチャンパーである。チャンパーは数種類の香木を産出するが、ここでいう占城香とはチャンパーの名産として特によく知られていた沈香を指すのだろう14。なぜ産地名で呼んでいるのかは不明であるが、占城産の沈香は真臘産に次ぐ品質のものとして知られていたので15、三級品ではないことを明示するためだったのかもしれない。11世紀のチャンパーにおけるムスリムの活動は漢語史料やアラビア語史料から知られている16

・没薬
 没薬は乳香と共に南アラビア~東アフリカの紅海沿岸地域特産の樹脂系香料であり、薬剤としても用いられた。東アジアにいつ到来したのかは判然としないが、宋代の中国には確実に伝わっていた17。ただし朝貢等によって膨大な量が持ち込まれていた乳香と比べると、東アジアに齎された没薬の量はあまり多くはなかったようである。

・大蘇木
 染料・薬剤として使われる蘇枋木のことで、スマトラ島やマレー半島近辺の特産品として知られる18

2. モンゴル帝国期の回回人
 高麗は1259年にモンゴルに服属した。以後、高麗はムスリム(回回人)とより密接に関わっていくようになる。

D33 世家33 忠宣王1 忠宣王210月(1310年)[上689
 戊辰、以閔甫爲平壤府尹兼存撫使。甫、回回人也。
 戊辰、閔甫を平壌府尹兼存撫使とした。甫は回回人である。

E】巻123 列伝36 嬖幸1 張舜龍[下687
 張舜龍、本回回人、初名三哥。父卿事元世祖、爲必闍赤。舜龍以齊國公主怯怜口來、授郞將、累遷將軍、改今姓名。…
 張舜龍は元々回回人であり、初めは三哥という名だった。父親は元の世祖に仕え、ビチクチとなった。舜龍は斉国公主の怯怜口として来て郎将の職を授かり、将軍に累遷して今の姓名に改めた。…

F29 世家29 忠烈王2 忠烈王510月(1279年)[上591
庚子、諸回回宴王于新殿。
庚子、回回人たちが新しい宮殿で王を饗応した。

 【D】【E】は高麗で官僚として任用されたムスリムの例である。【D】閔甫については平壌府尹兼存撫使19に任ぜられたというこの記事以外に情報がないが、【E】張舜龍についてはある程度経歴を追うことができる20。ここにある通り世祖クビライに仕えたビチクチの子として生まれた張舜龍は忠烈王に降嫁したクビライの娘斉国大長公主の怯怜口21として高麗に到来した。郎将から将軍へと進み、名を改めた。郎将から始まり将軍、宣武将軍・鎮辺管軍総管、大将軍、副同知密直司事、同知密直司事と昇進し、忠烈王二十三年に僉議参理在任中に四十四歳で死去している。
 【F】の回回人がどういった立場の人間であるのかは不明だが、ムスリムと高麗王家との良好な関係をうかがわせる記事である。
 『高麗史』におけるムスリム関係の記事で最も多いのは、やはり元朝との関係にまつわるものである。

G】巻29 世家29 忠烈王2 忠烈王941283年)[上609
 元遣塔納阿孛禿刺來、督修戰艦。
 元は塔納(ダナス Danas)と阿孛禿刺(アブドゥッラーAbd Allāh)を派遣し、戦艦建造を監督させた。

H】巻30 世家30 忠烈王3 忠烈王1981283年)[上631
 八月、元遣萬戸洪波豆兒來管造船、寶錢庫副使瞻思丁管軍粮。將復征日本也。
 八月、元は万戸の洪波豆児(バハードゥル Bahādur?)を派遣して造船を管理させ、宝銭庫副使の瞻思丁(シャムスッディーン Šams al-dīn)には兵糧を管理させた。

I】巻28 世家28 忠烈王1 忠烈王元年3月(1275年)[上567
 辛巳、元遣宣諭日本使禮部侍郞殷世忠兵部郞中河文著來。
 辛巳、元は宣諭日本使である礼部侍郞の殷世忠と兵部郞中の河文著を派遣してきた。

J29 世家29 忠烈王2 忠烈王63月(1280年)[上593
戊午、元遣蠻子海牙來帝勑禁郡國舍匿亡軍回回恣行屠宰。
戊午、元は蛮子海牙を派遣し、郡国が敗走した軍を匿うことと、ムスリムが屠殺を勝手に行うことを禁じる皇帝の命令を伝えた。

K35 世家35 忠肅王2 忠肅王94月(1322年)[上709
 辛巳、元以王不奉行帝勑、遣翰林待制沙的等來訊。四月丙午、沙的執員外郞阿都刺及式目都監錄事李允緘別駕徐允公以歸。
 (三月)辛巳、元は王が皇帝の命令に従っていないとして、翰林待制の沙的(シャーディー Šādī)らを派遣して調べさせた。夏四月丙午、沙的は執員外郞の阿都刺(アブドゥッラーAbd Allāh)と式目都監録事の李允緘と別駕の徐允公と共に帰った。

L】巻130 列伝43 叛逆4 裴仲孫[下835
 初賊謀作亂、將軍李白起不應、至是斬白起及蒙古所遣回回於街中、將軍玄文奕妻・直學鄭文鑑及其妻皆死之。
 はじめ賊は反乱を起こそうとしたが、将軍李白起が呼応しなかったので、白起とモンゴルが派遣していた回回人を街の中で切り殺し、将軍玄文奕の妻・直学鄭文鑑・その妻を皆死なせた22

 【G】【H】は共に元寇のための造船に関する記事である。よく知られているように、元寇船の調達にはムスリムが大きく関わっていた。
 【I】は文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の間に元朝が日本に送った使者に関する記事である。ここでは殷世忠と河文著の名しか記されていないが、『元史』巻208日本伝によればこの二人には計議官の撒都魯丁(サドルッディーン Ṣadr al-dīn)という明らかなムスリムも同行していた。この遣使については日本側の史料にも記録がある23。鎌倉時代には日本人とムスリムとの直接の接触が始まっており、既にこれに先立つ1217年に天台宗の僧侶・慶政が中国留学中に泉州の船上でムスリム(らしき人物)に出会っていたが24、このサドルッディーンははっきり記録に残っている限りでは日本の土を踏んだ最初のムスリムである。しかし彼らは生きて日本を出ることはなく、鎌倉で斬首された。
 【J】からは、この少し前に元朝下で出されたムスリムの屠殺法についての禁令25が高麗にまで及んでいたことがわかる。
 【L】はモンゴルへの服属に反対する三別抄の反乱(12701273年)を起こした裴仲孫の伝に見える記事である。ムスリムはモンゴルの走狗と見做されたのだろう。【K】のように、モンゴルの高麗統制のためにムスリムが派遣されることもあった。

M124 列伝37 嬖幸2 盧英瑞[下703
盧英瑞忠惠嬖臣也。嘗從王如元舍於回回家竊其妻杖之遣還。
盧英瑞は忠恵王の嬖臣である。かつて王に随行して元に行き回回人の家に宿泊した際、そこの妻と密通したため杖刑に処せられ送還された。

N136 列伝49 辛禑4 辛禑1311月[下945
禑如金鼻回回家索其女不得。賜回回子鞍馬仍令編髮侍從後、又取其女著男服隨之。
禑は金鼻回回の家に行き、その家の女を娶ろうとしたが叶わなかった。その回回娘に馬と鞍を授け、髪を束ねて付き従うよう命じ、さらにその女を娶って男の服を着せて従わせた。

 最後は女性関係のトラブルである。これらは共に高麗人が元朝下で出会ったムスリム女性にちょっかいを出した記事である。
 【M】では密通の罪を犯した盧英瑞が杖刑に処せられている。『元史』刑法志や『元典章』刑部によれば、男女同意の上での姦通では両者同罪で杖刑が科され、他人の妻を強姦した場合男は死刑で女は無罪となる26。ここで死刑でなく杖刑が科されたということは、この回回人妻も同意の上での姦通であったか、少なくともそう判断されたことになる。その元朝の法に従えば女にも杖刑が科されたはずであるが、中国では唐代以来ムスリム居住区が形成され、カーディー職も設置されてイスラーム法が運用されていたので、ここでも女の方はイスラーム法に基づき科刑された可能性もある。イスラーム法では既婚者の姦通(ズィナー zinā’)にはハッド刑として石打ち(ラジュム raǧm)にる死刑が科される。
 【N】は高麗王・王禑(在位1363-1389)に関する記事である。「金鼻回回」という表現は、西方系ムスリムの容貌に基づく表現だろうか。

 以上のように高麗は様々な形でムスリムと関係を持っていた。広州懐聖寺の墓碑に名を残す高麗人ラマダーンも、そのような背景の中に位置付けて考えるべき人物だろう。





古市大輔(連携研究者)「中国回民コミュニティ雑感――清代マンチュリアの回民社会に関する歴史的検討の可能性にも触れながら」

中国回民コミュニティ調査雑感
――清代マンチュリアの回民社会に関する歴史的検討の可能性にも触れながら
古市 大輔

筆者は,本研究課題「近代中国における回民コミュニティの経済的・文化的活動」において連携研究者として参画し,20097月~8月にかけては河南省(開封・鄭州),20108月には山東省(済寧・済南),そして20128月には甘粛省(蘭州・臨夏)におけるそれぞれの回民社会・コミュニティに関する調査に参加する機会を得た。
筆者の研究分野,ならびに研究方法・対象は主に,清代後期のマンチュリア(満洲,現在の中国東北部)における歴史研究であり,これまで,ほぼ档案類などの歴史文献に依拠しつつ,当該地域に対する清朝の政治制度・諸政策の検討を通じて,清代後期のマンチュリアにおける歴史的変動を解明しようと試みてきたi
したがって,本研究課題に参加した他のメンバーに比べ,本研究課題の内容と筆者がこれまでに試みてきた研究内容との間にはいささか隔たりがあり,そのため,正直に申せば,筆者が本研究課題において得た知見はあるいはさほど大きなものではないかもしれない。ただ,そうしたいささか「門外漢」である筆者の立ち位置はむしろ,様々な比較という観点・視点を提示する余地を持っており,それによって,本研究課題から得られたその知見の持つ意味や今後の議論の方向性・可能性を,いささか別の視点から提示できるかもしれない。筆者が本稿で記す内容の持つ意味・意義は,むしろその部分に求められているものと筆者は考える次第である。
まず,筆者が参加した3度の調査で得られた知見や感想を述べておきたい。
1)当然のことではあるものの,3地域の回民コミュニティはいずれも,回民としての慣習・作法・アイデンティティを維持して生活しており,人口的・政治的にマイノリティである回民コミュニティのその強い持続性をあらためて体感することができた。
 2)ただ,特に華北の2都市と甘粛との間に顕著なものであるが,そのそれぞれの回民コミュニティの間には,その宗派,作法,さらにはコミュニティの規模などに大きな差異があり,それらは回民コミュニティと大きく括って理解するよりもむしろ,「清真寺」あるいは「ゴンベイ」ごとの小単位でのコミュニティの具体性・独自性として理解するほうが相応しいということである。こうしたそれぞれの回民コミュニティの具体性・独自性を,筆者はこの調査に参加することで遅まきながら体得したように思う。
 3)また,このことが回民が回民たるその所以かもしれないが,平時には,彼らの回民としてのアイデンティティは,ムスリム(あるいはムスリマ)としての一体性を強調するものというよりはむしろ,彼らが居住する都市,あるいは彼らの生活の核になる「清真寺」や「ゴンベイ」ごとのまとまり以上のものではない場合が多いのではないかということである。彼ら回民は,実際の都市生活を維持するために必要かつ十分な範囲で柔軟に対応しているように筆者には見受けられたが,各地域の回民社会のこうしたスタンスに筆者はむしろ強い印象を受けた。
 4)さらに,特に甘粛で強く感じたことではあるが,現在の回民コミュニティが,当然ながら,現在の中国政府・共産党や地方政府との関わりなしに維持できないという現実である。ただ,筆者の眼に映り,強い印象を受けたのは,その否定的な側面ではなく,むしろそうした政治性を「利用」しつつ回民コミュニティを維持しようとする回民指導者たちのスタンスのほうである。他方,中国政府・共産党や地方政府もその回民指導者をある程度制御することで,当該地域における自身の政治的権力の所在を明らかにしつつ,回民コミュニティの一定程度の「自治」を容認しているという構図を作り上げている。もちろん,こうした中国における為政者(国家)とコミュニティ(社会)との関係性は,現在の中国で始まったものではなく,皇帝専制体制時期にも伝統的に存在していたものであったように思われ,そうした関係性の,長く,そして強い持続性のほうに筆者はむしろ強い印象を受けた。
 5)民族学(人類学)的な調査においては当然のことかとも思うが,本研究課題の目的の一つには,そのコミュニティの現況だけでなく,彼ら回民のアイデンティティや認識のありかたなど,現存する歴史文献からは読み取れない部分の調査が目的とされていた。この調査は,筆者のこれまでの回民観が他者(つまり,為政者であった清朝やマジョリティとしての漢族社会など)の目を通した一種ステレオタイプ的なものであり,彼ら自身の認識や,その地域的な差異,並びにその具体性・独自性にあまり注意を払ってこなかった筆者の認識に大きな修正を加える,その一つの契機となったものと感じている。
 以上が本調査から得た素朴な感想と僅かばかりの知見である。「門外漢」としての感想・知見であり,また,それを差し引いてもまだ甚だ稚拙かつ物足りなさを感じるところかもしれないが,以下では,そうした知見や印象に基づき,もう少し踏み込み,清代マンチュリア史を専攻する筆者の現在の興味関心や研究領域との関わりにも触れながら,研究メモのようなかたちで今後の課題・展望として,いくらかの指摘を加えておきたい。
 第1に,清朝国家による少数民族(回民などのマイノリティ)政策と,清代マンチュリアにおけるその具体的様相に関する検討の可能性についてである。本研究課題では実現しなかったものの,現在の中国東北部で生活する回民の調査が可能になれば,おそらく本研究課題で調査をおこなったそれぞれの地域の回民コミュニティとも異なる回民像を映し出すはずであるii。上述の2)や3)で指摘した回民コミュニティの多様性はもちろんだが,4)で挙げたような中国政治と回民社会との関わりという視点に鑑みると,中国東北部における中国政府と回民コミュニティとの関わりなども大変興味深いところである。
そして,そうした両者の関わりを,筆者のこれまでの興味関心に沿いつつ,歴史的文脈のなかで捉えることも十分可能かもしれない。因みに,清朝国家はマンチュリアでは自民族である満洲族のほかにツングース系・モンゴル系諸民族に対する支配をおこなっていたがiii,では,そうした諸集団に対する少数民族支配に加え,マンチュリアにおける清朝の回民への対策は如何なるものとして理解すべきであり,かつ,清代マンチュリアにおけるその具体的様相は如何なるものとして説明し得るのだろうか。このことに対する検討の余地もまだ十分に残っているように思う。
また,この検討が進めば,いずれも当時は清朝版図の「周辺部」とも見なされていた,清代マンチュリアと特に回民の多かった「西北」地域との比較対照もあるいは可能になるであろうし,その比較によって,清代「西北」における漢回関係・漢回対立に関する理解に対しても何らかの寄与が可能になるかもしれない。さらに,清代マンチュリアの歴史を規定していた満漢関係に加え,当該地域のもう一つのマイノリティとしての回民の存在をそこに含めて論じることができれば,清朝国家と回民社会との関わり方の様相をより具体的に説明し得るばかりでなく,その関わり方の多様性や地域的差異をも紐解くことが可能になるだろう。
 第2に,清代後期の「周辺部」あるいは「辺境」地域の歴史的変動過程のなかでの少数社会(マイノリティ)の位置づけに関する検討の可能性についてである。19世紀後半の洋務運動期には,中国の「周辺部」あるいは「辺境」地域とみなされつつあった「西北」や雲南で漢回対立が顕著となっておりiv,当該地域の歴史における回民の位置づけに対する関心はこれまで常に高かったといえよう。とすれば,中国「西北」や雲南におけるこうした歴史的事象との比較を通じ,同様の視点から,同じく「辺境」地域であったマンチュリアにおける為政者・支配層たる集団(清朝や漢族社会)と回民を含む少数社会(マイノリティ)との関係性を踏まえたかたちで,清代マンチュリアにおける回民の意義に関する検討が可能になるかもしれない。
因みに,筆者は洋務運動期を含む19世紀後半のマンチュリアにおける歴史的変動とそれに強く関わった清朝の対マンチュリア諸政策についてこれまで研究を進めてきたが,現在は,その清朝の諸政策が同時期の中国他地域における諸政策と如何なる関連性・類似性を有していたかという比較史的な関心も持ってきているv。夙に様々な指摘があるように,清代マンチュリアにも確かに回民は存在・活動していたがvi,それでは,激変状況下の「辺境」地域の一つであったマンチュリアの回民社会の姿をどのように描き,また,清朝はその回民社会に対して如何なる対応をおこなっていたと説明し得るのか。さらに,回民の人々や社会のその振る舞いは,清代後期のマンチュリアにおける歴史的諸変動との関わりのなかでは如何に位置づけ得るのか。そして,その回民社会は,近代マンチュリアにおける地域社会の急速な形成過程のなかでどのようにしてその過程に対応していったのか。こうした様々な課題設定を,本調査からさしあたり想起できるのではなかろうか。
例えば,その議論の糸口としてさしあたり現時点で指摘し得ることとしては,清代マンチュリアにおける瀋陽の名士であった鉄氏一族や軍人の左宝貴などの政治的台頭などを,回民社会自体の変容とともに,清代マンチュリアにおける歴史的変動と関わらせつつ如何にして論じることが可能かという議論を挙げることができるが,このような点を手がかりの一つとして清代マンチュリアにおける回民社会の歴史的意義について具体的に検討することが徐々に可能になってくると思われるvii
 第3に,文献史学と民族学(人類学)的フィールド・ワークとを接続しつつ,それをマンチュリアの歴史研究や当該地域における回民研究に援用させる可能性についてである。
これまでに既に行われてきている様々な回民社会調査記録を前提に,本調査の手法を援用しつつ,現在の中国東北部における回民社会へのフィールド・ワークをあらためて行い,それを通じ,当該地域の回民社会の現状と歴史についての再検討を試みる余地はまだ十分に残っているように思う。因みに,20世紀前半の中華民国期や満洲国期のマンチュリアにおける回民社会については,近年,田島大輔氏や安藤潤一郎氏らによる精緻な研究がなされているがviii19世紀以前の時期,すなわち清代以前のマンチュリアにおける回民社会の歴史に関しては,中国「西北」や雲南と同様,文献資料が極端に少ないため,本研究課題のような民族学(人類学)的フィールド・ワークを通じた回民社会とその歴史の捉え直しの可能性や余地が十分に残されているものと思われる。
最後に,第4の可能性として,清代から近代以降に至る時期のマンチュリアにおける回民社会の変容について検討する際の視角の提示可能性についてである。近代中国における回民社会の変容は如何なる要因から説明しうるのであろうか。これまでの回民社会研究においては主にその宗教・認識・教育などの側面からの検討がまず進められてきたように筆者には感じられるが,商業をその主たる生業とすることの多かった回民の経済的活動とその変容のありようからも回民社会の変容を説明することが可能であろう。
因みに,清代のマンチュリアにおける商業・流通構造やそのルートなどに関しては,夙に様々な研究成果があり,また,マンチュリアへの漢人移民の歴史的展開という主題も,清代マンチュリアにおける社会経済史的な検討課題の中核とされ続けてきたix。こうした清代マンチュリアの社会経済史的文脈のなかに,マンチュリアにも浸透していった回民社会の動向は如何に位置づけられるだろうか。また,近代マンチュリアにおける社会経済史的変動はこれまで「河運・水運の衰退と陸運の台頭」として説明されることも多かったがx,こうした説明を援用できるならば,近代マンチュリアにおける商業・流通面での変容が当該地域における回民社会の生業や生活を如何に変化させたのであろうか,という問いも可能になってくるであろう。もちろん,そのことはマンチュリアという特定の地域に限定するまでもなく,清代までの中国における商業・流通構造やそのルートやネットワークが近代以降に如何に変化し,かつ,それに伴って回民社会が如何なる変動を遂げたのか,という課題としても設定することが可能であろう。そして,この課題は,中国における回民社会の歴史的変遷を総合的に捉える際の重要な一視点となるはずのものであろうと筆者は考えている。



吉澤誠一郎(研究分担者)「コミュニティ、エスニシティ、フィールドワーク」

コミュニティ、エスニシティ、フィールドワーク
                         吉澤誠一郎

 今回の科研調査は、主に河南・山東などの回民コミュニティを回り、碑文をはじめとする歴史文献を実地に求めるとともに、聴き取りを行なうというものであった。ここでは、その観点や手法について反省的にふりかえってみたい1
 私は、今回の科研も含めて過去10年ほどの間に、多くの中国ムスリムのコミュニティを訪れる機会を得た。最も頻繁に訪れたのはモスクであった。中国ムスリムは、おおむねモスクを含む一定の地区に集まって住んでおり、このコミュニティの中核をなすのはモスクであると、ひとまず考えられる。今日では中国都市の再開発が進み、天津の老城西北角のように旧来のムスリム集住地区が大きく変容させられた事例も珍しくない。しかし、歴史的には、そのようなコミュニティが中国ムスリムにとって重要な生活の場であったと考えてよいだろう。それは研究史のなかで「中国のイスラムの共同体または清真寺共同体」2と呼ばれたことがある。
 しかし、そのコミュニティが、とくにモスクとの関係でどのような構造をなしているのか、または構造といえるほど緊密なまとまりと言えるのかどうか、といった問いについては、いまだ十分な回答は得られていない。現状については一定の知見が得られるとしても、歴史的な分析は難しい。
 回民コミュニティは確かにモスクを宗教的な中核をなすと見ることができる。モスクのアホンは、当該コミュニティの信者組織によって招聘されて着任し、その地区の宗教的な生活において重要な役割を果たす。しかし、一つのコミュニティに二つ以上のモスクがあるのは普通のことである。このように複数のモスクがある理由は、単に現在の機能的な必要だけでは説明しきれず、過去の宗派的な対立などの歴史的な経緯をたどることによって初めて理解できる場合も多い。
また、コミュニティを成り立たせる要素として、むろんモスクの存在は決定的な重要性を持つのだが、アホンの招聘をはじめとして、その運営にあたる信者組織(郷老)の意味は大きい。社会史的な観点からすれば、この信者組織について、いっそうの探究が不可欠であろう。今回の調査で訪れた山東省の小金荘では三掌教の制度が機能していて、伊瑪目は金氏、海推布は馬氏、穆安津は周氏が世襲するという形になっていることがわかった。宗族とコミュニティ運営が密接に結びついているのであり、このありかたは100年、200年と遡る可能性がある。小金荘コミュニティは一つの自然村落がほとんどムスリムによって占められるため、このような形態が続いてきたという特殊性があるのかもしれない。他方で、都市部では、どのような形で信者組織が運営されてきたのか、我々の知識はまだ不足している。
モスクごとに信者の組織があるとすれば、複数のモスクがある場合には、ひとつのコミュニティ(と見えるもの)は実はモスクごとに別途に編成されているということになるのだろうか。簡単にそういうべきではない。確かに、信者がどのモスクに通うのかということは、宗教的な生活においては重要なことではあるが、モスクごとに生活全般が分かたれているわけではなく、やはりムスリムの集住区としてのコミュニティが大きな意味をもっているからである。このように考えてみれば、そのコミュニティという概念について、改めて反省しながら、より立ち入った議論をすることも必要であろう。
 概念の反省といえば、民族やエスニシティという視点についても我々は常に問い直していかねばならない。中華人民共和国では国家の基本的な構成要素として「民族」の範疇が設定されていて、中国公民はみな身分証に民族籍が記入されている。むろん、そのことも現在の人々にとって意味をもつ局面はあるが、私が知りたいのは、それだけではなく、より広範な社会の現実なのであり、それをエスニシティなど称することもある。「回民」という中国語がよく使われるのは、「回族」というのでは表現しきれない何かのリアリティがあるからだと私には思われる。ムスリムであることと回族・東郷族・保安族・サラール族といった民族籍をもつこととも間にも一定の緊張があるし、また、この調査以前に雲南省ではぺー族のアホンにも会ったこともある。
 私のような歴史学者は、このようなエスニシティを通時的に変遷するものとして把握しようとする傾向が強い。しばしば、他の研究視角をとる研究者の間では、「本質主義」と「構築主義」という二項対立で議論を進めることが多いようである3。ときに、先行研究の整理においても、エスニシティについて「本質主義」と「構築主義」という見方の相違を指摘することがある。しかし、私にとっては、エスニシティが歴史のなかで「構築」されてきたというのは自明のことであり、そのような論点整理そのものが奇妙とも感じられる4
しかし、それは研究者としての外部の視点にすぎない。逆に、民族の自己認識の重要性を強調する指摘もある。楊海英は、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」論を批判して「民族を「想像」の視点で研究する場合、その「民族」形成の歴史的プロセスと当事者たち自身の認識を否定しかねない政治的危険性が潜んでいる」5と述べている。むろん、楊は民族形成の動態性を強調しているので、必ずしも「本質主義」にくみするわけではないが、何より当事者の認識を重視すべきだという主張は、理論家の「本質主義」と「構築主義」といった区分をはねかえす強さを有している。
 我々の調査は、モスク訪問に大きな重点がある。アホンは地元コミュニティの人ではなく、あちこち移動しながらイスラーム教学を修めてきたことから、視野も広いのだが、当然ながらイスラームの普遍性を前提とした発想を持っている。このようなアホンの存在(そしてイスラーム教学を志す弟子マンラー)は、地理的に分散しているムスリムのコミュニティをつなげていく一つの大きな紐帯となっている。しかし、このことが、河南や山東の回民、甘粛のサラールや東郷といった人々のエスニシティ形成にもつ意味については、まだ深く考えてられていない課題といえるだろう。新疆においても、地元のウイグルの人々と移住してきた(または移住させられてきた)ムスリムの人々は必ずしも同じモスクに集うわけではなく、イスラームの普遍性ということでは、エスニシティの現実はとらえきれない。
 他方で、昨今の交通手段の発達やインターネットの普及は、巡礼のためのサウジアラビア訪問、国際的なイスラーム主義思潮の普及など、ある種の思念された共同体としての「イスラーム世界」の観念を中国のムスリムにも注ぎ込んでいるともいえるだろう。これもまた、現今のリアリティとみなすべきである。
歴史的にも、少なくとも20世紀前半における中国イスラームの復興運動には、国際的な契機が大きく関係してきた。ウイグルの民族意識が20世紀の産物であることはよく知られているが、実は、中国ムスリムの改革運動も、20世紀中国の民族主義に加えて、国際的なイスラーム復興と関係した歴史的な経緯を持っているとみてよい6。そして、これがコミュニティのあり方とどのような関係にあるのかという点の解明が必要であろう7
 さて、最後にフィールドワークと歴史学研究の関係について見てみよう。概して、フィールドワークを主要な方法論とする研究者から歴史学者への眼差しは厳しい。ただし、私の見る限り、(意識的・無意識的な)誤解に基づく不適切な批判も散見される。
それにしても、やはり考えていかなくてはならない論点は山積している。最大の問題点は、フィールドワークをどのように歴史学研究に生かしていくべきかについて、十分な共通理解が無いことだろう。
 この点、近年、江南地域のフィールドワークを精力的に進めている太田出と佐藤仁史の主張には、傾聴すべき点が多く含まれる。太田・佐藤らの調査は、現地でないと得られない文献の入手という側面も有しており、地方文献の発見と景観調査そして現地の人々からの聴き取りを総合的に組み合わせようとしている。まだ進行途上の研究なので、その成果の全貌について論じるには時期尚早かもしれないが、彼らがフィールドワークについて述べていることは、真摯に議論していくための出発点として非常に有意義である。
 太田が指摘するように、1980年代半ば以降、日本の歴史学者が江南でフィールドワークを開始した学問的理由は、「文献資料に依拠しながら描出されてきた歴史世界があくまで文字を駆使しうる知識人層の認識する世界であり、小農民の世界、すなわち「非文献」の世界を表現しようとすれば、文献資料のみでは十分でなかった」8という認識に求められる。それを踏まえ、今後の地域社会史研究は、「文献資料に依拠する理論研究と、フィールドワークによる景観調査・口碑資料収集に依拠する実態・事例研究を並び進めながら、一方で二つの方法論のせめぎあいと相互補完関係を試みる中で構築されていく必要があると思われる」9と太田は提言している。このような点は、ムスリム調査を行なう我々にも共感できる姿勢であろう。
 今後、大いに議論していくべきことは、フィールドへの入り方とそこで得られた情報の使い方、そして現地の人々とのつきあい方といった具体的な事柄である。ここではひとまず、どのようにフィールドに接近するかということのみ考えてみたい。
 佐藤・太田らの方法は、個人的な関係による接近である。過去の学者による調査では、地方政府や社会科学院と折衝して受け入れてもらうという方式が多くとられたが、彼らのグループは「現地協力者や郷土史家との間に築かれた友人としての関係を通して口述調査を実施した」。この方法は「偶然性に依拠していて極めて非効率的であるという問題点を有するものの、インフォーマントにたどり着くまでの人間関係や彼らが置かれた立場を慎重に吟味する必要があるため、却て基層社会の理解に裨益することも多いように思われる」という10
 これは、我々のムスリム調査が、地方政府や公式の研究機関と関係なく進んできたのと同様であり、ここで佐藤・太田がいう意味も私には理解しやすい。とくにムスリムのコミュニティにおいては、モスクが重要な役割を果たしていることは疑いないから、まずモスクを訪れることは自然な勢いである。何らかの紹介を得て訪れることもあるが、全く飛び込みの訪問でもアホンにきちんと応対してもらった事例は数知れない。これには、いくつかの理由があるだろうが、やはりアホンは地元民ではなく、比較的広い社会を見てきて学識も積んでいるから、「中国のイスラーム文化に関心がある」と称する日本人に対しても比較的容易に接点をもつことができるからだろうと、私には感じられる11
 他方で、アホンは、地元コミュニティにとっては外来者である。アホンは確かに当該コミュニティの宗教的生活の全般に目を配っているはずだが、しかし、もしコミュニティの歴史について深い理解を得ようと思うならば、やはり地元民からの聴き取りをさらに深めていくことは不可欠であろう。
 もう一つ留意すべきこととして、外国人なかでも日本人が調査を行なうことについて、とくに困難な点があるかどうかという点がある。日本人が漢語を用いて調査すると、ムスリムたちは中国の漢族と区別がつかず、まともに回答しないだろうといった批判もあるが12、その指摘は現実には全く的はずれといってよい。むしろ、私が懸念したのは、過去の日本の侵略がムスリムのコミュニティに与えた被害のことである。たとえば、開封で聴き取りをすると、しばしば半世紀以上前の洪水のことが出てくる。個人史のなかでも、つらい記憶と結びついている場合もある。これは実は、1938年に中国軍が黄河を決壊させることで、日本軍の侵攻を防ごうとした事件を指している。日中戦争によって洪水が引き起こされ、多くの人命が失われたのである。また、華北都市では、日本軍の占領のもとムスリムのなかから対日協力者となった者もいたであろうが、彼らが日本の敗戦後に被った苦難についても、調査に当たっては十分に意識しておくべきであろう。
我々の調査は「ゲリラ・フィールドワーク(guerilla fieldwork)」と揶揄されたこともある13。このような方法が真に望ましいものかどうかは、まだ確言できないが、太田・佐藤の方法論にも学びつつ、まだ視野を拡げていく可能性は残っていると考えられる。そして、コミュニティやエスニシティなど理論的な概念についても、あくまでフィールドから深い吟味を加えていかねばならないと思う。








1 本稿は、拙稿「社会史」岡本隆司・吉澤誠一郎編『近代中国研究入門』(東京大学出版会、2012)の記述を補うという意味がある。あわせて参照されたい。
2 佐口透「中国ムスリムの宗教的生活秩序」『民族学研究』134(1948)331頁。
3 たとえば、上野千鶴子編『構築主義とは何か』(勁草書房、2001)
4 このように「本質主義」と「構築主義」を対照させる整理法の不可思議さは、このような対照を行なう論者はほとんど後者の立場をとっていることで、「本質主義」者を自称する人があまりいない点にもある。
5 楊海英『モンゴルとイスラーム的中国』(風響社、2007)26頁。
6 中国におけるイスラーム復興思想と近代主義については、佐口透「中国イスラムの近代主義」『金沢大学法文学部論集』史学篇16(1969)、中国ナショナリズムと「回族」意識については、安藤潤一郎「「回族」アイデンティティと中国国家──1932年における「教案」の事例から」(『史学雑誌』10512, 1996)参照。
7 開封のコミュニティについての注目すべき考察としては、王柯「重層的社会におけるアイデンティティの形成少年時代の白寿彝と開封」『中国研究月報』532(1999)
8 太田出「中国地域社会史研究とフィールドワーク近年における江南デルタ調査の成果と意義」『歴史評論』663(2005)56頁。
9 同前、60頁。
10 佐藤仁史・太田出「序論」佐藤仁史ほか編『中国農村の信仰と生活太湖流域社会史口述記録集』(汲古書院、2008)9頁。より詳細には、佐藤仁史・太田出「太湖流域社会史現地調査報告外国史研究者とフィールドワーク」『近代中国研究彙報』30(2008)参照。
11 また、モスクの近くで開業しているイスラーム関係用品店もよく訪れてきたが、彼らも商売柄、見知らぬ者と接触をもつことに抵抗感が少ない存在でもあったと言えるだろう。
12 B. J. ter Haar, “BoekbesprekingenArabica,” Bibliotheca Orientalis, vol. 63, no. 5/6, 2006, p. 620.
13 Ibid.

森本一夫(研究分担者)「河南省と甘粛省に聖裔を求めて」

河南省と甘粛省に聖裔を求めて
森本一夫

はじめに
 私は、2009年夏の河南省調査(開封、朱仙鎮、鄭州)と2012年夏の甘粛省調査(臨夏、東郷、蘭州)に参加した。両調査における私の主たる担当は、アラビア語とペルシア語で書かれた碑文の読解であった1。また、多少なりともイスラーム教の「御本地」を歩いてきた経験を活かし、中国イスラームの専門家が当然のこととして見過ごしがちな興味深い事象に遭遇した場合にそれを指摘することも、私に期待されていた役割であったように思う。そして、実際に調査に行ってみると意外と意味を持ったのが、とてもアラブ人との会話には使えない私の教科書的アラビア語会話であった。清真寺で誰かに何かを質問してみようというような際、私が(実は真似事のようなものに過ぎない)アラビア語を口にしてみせることには、相手のより真剣な対応を引き出すという点で一定の効果があったように思う2
 とはいえ、両方の調査旅行での私の学問的な収支が圧倒的に入超であったことは否めない。専門家である同僚たちは、門外漢である私の無知を面白がってか哀れんでか、実に丁寧に様々なことを教えてくれたし、現地の方々に対する私の的外れな質問も、厭わず中国語に訳してくれた。特に、私が自分の主たる興味の対象である「聖裔」(ムハンマド一族;中東などでは「サイイド」や「シャリーフ」などの称号を帯びることが多い)について繰り返し同じような質問をするのに付き合っていただいたのは恐縮であった。以下、調査旅行の間に得ることができた聖裔関係の情報を簡単に整理しておきたい。

開封・朱仙鎮に聖裔はいない
 私はムハンマド一族を研究することの必要性を強調する際に、彼らはムスリムのいるところならばどこにでもいる、という物言いをすることが少なくない。しかし、聖裔の存否に関する質問への開封と朱仙鎮の人々の回答は、このような発言はやや大げさに過ぎることを示すものであった。調査団メンバーによる「ここにムハンマド一族はいるか」という質問に対する3人の方の答えは、判を押したように、否定的なものだったのである。
 
開封善義堂清真寺での「青年(管理委員の人か)」(39歳)とのやりとり。
Q:サイイド(といっても通じなかったので「聖裔」と言い直す)はいるか。
A:答えにくい。中国にはいるが、起源が古いので、いると明確に言うのはむずかしい。

開封北大寺での姚鴻賓さん(74歳;社区の責任者、モスクの実務責任者)とのやりとり。
Q:開封にサイイドはいるか。
A:いない。西にはいるが。

朱仙鎮清真北寺での劉学強さん(36歳;アホン)とのやりとり。
Q:サイイドはいるか。
A:中国にはシーア派はいない。サイイドは門宦にはいるが、東にはいない。

 開封での存否については必ずしも明言していない善義堂清真寺の青年を含め、3人が3人とも明らかに「ここに聖裔はいない」と認識していたのである3。ただし、これら3人の全員が聖裔の存否を問う当方の質問を理解しただけでなく、中国全体に視野を拡げれば確かにそうした人々がいる、あるいは、西にはいるが東にはいない、と述べたことは注目されて良い。身近にはいないにしても、聖裔という存在自体は知られていることが分かる。また、善義堂の青年の発言は、聖裔がいるかという当方の質問を、本物の聖裔がいるかという質問と誤解した上で、聖裔を称する人々の血統を必ずしも信頼している訳ではないことを示したものであり、興味深い。特に、起源が古いので判断がつかないという理由づけは、起源が古ければ古いほど尊び真正視するという伝統主義的とでも呼ぶべき立場とは明らかにアプローチを異にしている点で面白い。何気ない発言であったろうとは思うが、どこか近代的な進歩史観の影響を感じさせるものであるように感じた。最後に、劉アホンの発言についてであるが、アホンは確かに最初、聖裔に関する質問に対して、それをシーア派と結びつける回答を行った。話題が(別にシーア派ではない)門宦に跳ぶに当たっては、私自身による、聖裔は別にシーア派だけではないのではないか、というような介入があったように記憶している。

甘粛省には聖裔がいる
 河南省では不発に終わった私の聖裔探しも甘粛省では報われるであろうことは出発前から聞かされていた。また、西北の門宦教主の家系に預言者の血統を称するものが多く存在することは、(さすがの)私もそれまでに知るようになっていた。したがって、聖裔探訪の目標は、聖裔を見いだせるかどうかにではなく、聖裔関係でどれだけ面白い話を聞くことができるかにあった。以下は甘粛省での記録である。
 我々の臨夏訪問は、たまたまその時期が祁明德氏没後40日目と重なったことから、ご遺族により参加を許された追悼儀礼への参加をその目玉とすることになった。祁一家を核とする門宦の宗教儀礼や、儀礼の場を利用した(我々外国人研究者に対するものも含めた)門宦の宣伝・外交のあり方を、近くから観察できたのは幸いであった。
 したがって、明德清真寺関係の聴き取りと参与観察の場では、聖裔の話はごくごく周縁的な意味合いしか持たなかったのではあるが、かといってその線での質問などをしなかった訳ではない。まず市外の明德拱北を訪問した際に、拱北の中の壁にカルバラーの黄金のドームを写した写真が飾ってあるのを見つけてその意味合いを質問した機会を掴んで、我々が「優秀マンラー」という渾名をつけた弟子筋の人物に、祁一家が聖裔であるのかどうかを尋ねてみた4。彼の答えは、ムハンマドの一族であるというものだったが、それに続けて行った系図の存否についての質問に対する彼の答えや行動は、はなはだ要領を欠いたものであり、結局のところ、道統を記録したものはあるが、系図はないというのが回答であったように思われる。もしかすると彼は、端から血統についての私の質問を道統についてのものと誤解していたのかもしれない。
 祁一家の血統については、その後、祁明德氏の4男である祁忠良氏、そして祁姓ではあるものの祁明德氏との血縁関係はかなり遠い5祁宗承氏にも質問した。二人の返答は、ともに聖裔ではないというものであった。そして、この二人とのやりとりに関しては、こちらの意図を理解してもらえたという確信がある。以上から、祁一家は、「優秀マンラー」氏の最初の返答に反して、ムハンマド一族の血統は称していないと考えるのが妥当であろう。祁一族に関しては、聖裔探訪としては実は空振りだったのである。
 なお、祁宗承氏は、イスラマバードの国際イスラーム大学でアラビア語・アラビア文学を勉強しており、引き続きパキスタンで修士課程をも修めるつもりであるという人物であった。私と会話するのに程よい程度のアラビア語、しかも正則アラビア語を話すので、彼も喜び、ずいぶん熱心に色々なことを教えてくれた。話の内容は主としてワッハーブ派批判とスーフィズム擁護であったが、私が聖裔に関心を持っていることを踏まえ、以下のような話も聞かせてくれた。

ヒダーヤトゥッラーという人6が、子供ができずに(あるいは結婚する度に妻が死んでしまい?)困っていた。別のどこかの場所に(東の方の具体的な地名を言った気がする)サイイドがいるというので会いに行き、そのことを相談した。サイイドは、自分には子供ができることになっているからその子をあげると言って、ヒダーヤトゥッラーの背中を自分の背中と触れさせて、それで子供を譲ってやった。ヒダーヤトゥッラーは自分の町に帰ってついに子供を得た。それゆえ、ヒダーヤトゥッラーの子孫は預言者の子孫として知られている。

 私の聖裔探訪がついに実を結んだのは、東郷族自治県に本拠を置く大湾頭クブリーヤの教主のご子息、張開吉教長との面会においてであった。張教長はイランに留学され、テヘラン大学神学部で学ばれた方なので、ペルシア語で十全に意思の疎通ができたこともあり、色々と話を聴くことができた。シーア派のイランで勉強するのに困難はなかったかという私の質問に対し、「シーア派は、最初の二人の正統カリフ(シャイハイン)は否定するかもしれないがアリーは尊敬している。それゆえ、シャイハインもアリーも尊敬する自分にとっては、イフワーン派と親しむよりも親しみ易い」という面白い発言が出たりして、興味の尽きるところがなかった。
 張家は聖裔の一族であり、カーディリーヤの名祖であるアブドゥルカーディル・ジーラーニーの子孫を称している。張教長は、クブリーヤの由来と張家の血統とを、まとめて以下のように説明して下さった。
 
アブドゥルカーディル・ジーラーニーは、奇跡(karamat)によって3度中国に現れた。最初に現れた時はフフィーヤを創設、次に現れた時はジャフリーヤを創設、3度目に現れた時には、弟子のハージャ・アブドゥッラーを通じてカーディリーヤを創設する(これはアブドゥッラーの子孫に受け継がれる)とともに、自身でクブリーヤを創設した。クブリーヤはジーラーニー自身の子孫によって受け継がれ、自分もその系統である。ジーラーニーは東郷のサーリーに現れ、そこで200年間ハルワを行い、東郷で亡くなった(廟は大湾頭に;建物更新中)。イフワーン派は、そんなことはありえないと言うが、ワリーには時をまたいで現れたり、瞬間移動をしたりということはあり得るのであり(アッラーメ・タバータバーイーもそうであったように、との発言)、またジーラーニーは(Manaqib Ghawthiyyaという本にもあるとおり)そうした奇跡が特に多いことで知られているのである。

 さらに、聖裔であることがどのような意味を持つのか、系図はあるのかという質問に対しては、

ムハンマドの子孫であることの意味はどうかと言えば、多くの人はそもそも私がムハンマドの子孫であることを認識していない。認識している人にとって、そのことに意味がないとは言わないが、とりたてて云々するほどのことはない。系図に関しては、80年前くらいまではあったが、その頃(共産化以前)に国民党の軍隊が通ったりした頃に書庫が焼かれてしまい、系図だけでなく、あらゆる本が焼けてしまっている。

とのお答えであった。臨夏で祁宗承氏が語って下さったヒダーヤトゥッラー関連の奇跡譚に続いて、ジーラーニーの東郷出現という奇跡譚と、それにもとづく張家の血統主張を聞くことができた訳である。また、そのような奇跡譚の存在に比して、聖裔の血統が現在の宗教生活において持つ意味に関する張教長の言葉は非常に控えめであったのが印象的であった。ここからは、過去においては奇跡という回路を使ってでも主張するだけの意味を持つものであった聖裔の血統が、現在ではその意義の大半を失ってしまっているという筋書きを想定することができるように思われる。
 なお、甘粛調査では、蘭州の霊明堂においても、馬文龍アホン(45歳)が語る道統の中に、ハミードゥッディーンというアフガニスタンからやってきた聖裔が登場していた。カシュガルに来ていたこの人物と、霊明堂の名祖である馬霊明が、時空を超えて霊的交感を行ったという話であった。

おわりに
 以上、調査旅行の端々で聖裔関係の質問を行ったことを「聖裔探訪」と称し、調査記録から関連の情報を抜き出してまとめてみた。スーフィー系の聖者、特に一族で教団の長の地位を相伝しているような人々がムハンマド一族の血統を称すのは他の地域でも広く見られることであるが、ヒダーヤトゥッラーの話にも、張家の話にも、血統の奇跡的な伝達という要素が見られたことには、「御本地」からはるか東に隔たった中国という地ならではの独自性が見いだせるのかもしれない。



中西竜也(研究分担者)「アホンの風格」

アホンの風格
 中西竜也

はじめに

 いわゆる「経堂教育」1は、近代にその弊害や限界が指摘されたが、様々な改革を経て、近代的ニーズに応えた結果、再生・存続し、今やさらなる発展を遂げようとしている。したがって、前近代と近・現代とでは、経堂教育の在り方に大きな差異がある。といっても、いっぽうで変わらぬものも、当然ながら存在する。たとえば、前近代の文献中に描写される過去の「アホン」2たちの営為や心性の一部は、現代にいきる生身のアホンのうちにも見出すことができる。
このような連続性の発見が生じ得るのは、アホンとは何か、もしくはアホンとはいかにあるべきかをめぐるある種の観念が、ひろく中国ムスリム社会のあいだで支持され、かつ時代を越えて維持され続けてきたからであろう。とすれば、その種の観念は、前近代・近現代を通じて中国ムスリム社会がアホンに期待してきたところ、あるいは中国ムスリム社会の普遍的心性の一端を考える手がかりになるかもしれない。
 そこで以下では、現代のある一人のアホンと、文献中に登場する過去のアホンたちとのあいだに、筆者が感得した連続性について報告する。それ自体は、あくまで主観的感想の域を出ないものかもしれないが、それでも前近代と近現代を貫く中国ムスリム社会の普遍的心性という問題を今後かんがえていくうえでのひとつの手掛かりにはなるだろう。

海アホンとの会見始末

 その人は、ある種の威厳を放っていた。といっても、けっして威圧的なところがあったわけではない。むしろ突然の来訪者にすぎない我々を実に丁重にもてなして、その目は優しげですらあった。にもかかわらず、全身から凛とみなぎる気品のようなものに、私は気圧されるような感じを覚えたのである。それは強いて言えば、師のまえで畏まっているときの感覚に近かった。積み上げられた学問の圧倒的な高さと厚みを前にして憧憬と戦慄が同時にこみ上げてくるような、あの感覚である。彼の威厳や気品は、知識の確かさや研鑽の久しさ、あるいは志望の高さや信念の堅さから、おのずと醸し出されるもののようであった。アホン然としたアホンとは、きっとこのような人のことを言うのであろう――それがその人、海明豪アホンの印象だった。
河北省滄州の南大清真寺に、我々が海アホンを訪ねたのは、2012216日のことだった。この訪問の動機のひとつは、彼の祖先にあたる海思福という民国時代のアホンに、私が興味をもったことにあった。海思福(1832-1920)は、王静斎(1879-19493の師の一人として知られ、王の回想録のなかでは、200余種のアラビア語・ペルシア語イスラーム刊本(印版西経)を保有する大蔵書家としても言及されている4。私がとくに興味をもったのは、そのような大量の刊本を海思福が入手した経緯や、その社会・経済的背景、および思想的背景・影響がどんなものであったかということであった。また、それら蔵書の具体的内容や残存状況も知りたいところであった。これらのことについて、子孫ならば何か知っているのではないか、そう思って、海思福の後裔である、海アホンを訪ねたのである。
 結局、海思福コレクションの全貌や、それらの入手経緯およびその歴史的背景などについては、具体的な知見を得ることができなかったが、残存状況については確かな情報が得られた。すなわち、ただ一種類を除いて全てが失われた、とのことだった。
原因は文革だった。アラビア語・ペルシア語のイスラーム諸経典は、すべて当局に没収され、ほとんどがそのまま返ってはこなかったのだった。ただ、文革収束後、奇蹟的に一種類の経典だけが、当局によって海氏のもとに返却されてきたという。その経典とは、ペルシア語のクルアーン注釈、『タフスィーレ・ザーヒディー(Tafsīr-i Zāhidī)』全4冊だった5。その末尾には「真主よ、この経典を水禍や災害から保護したまえ」という祈祷句が記されてあり、それが手元に返ってきたことに神の加護を感じた、と海アホンは真剣な表情で語った。

アホンの写本が語るもの

 苦難の時代を潜り抜けた『タフスィーレ・ザーヒディー』は、今なお大切に保存されているというが、やはりあまりに貴重なものなので拝見することはかなわなかった。しかし、代わりに海アホンは、自筆のペルシア語写本を我々に見せてくださった。サアディーの『薔薇園(Gulistān)』だった。比較的大きな文字で書かかれた本文の下には、微細だが明瞭な文字で注記が施されているらしかった。どれも実に美麗な文字で記されていた。写本を我々に見せながら、海アホンは次のように説明した。アホンたちは今も昔も刊本より写本を好む、なぜなら写本は、行間を広く取って、そこに文法事項や語釈、コメントなどを注記できるからだ、と。そういえば、中国では、アホンたちが自ら写したと思しきアラビア語・ペルシア語写本の私家影印刊本が流布しているが、それらにおいても、しばしば行間に文法事項や語釈などが注記されている。海アホンの説明はこの事実に符合した。
 海アホンの説明は、いわゆる「経堂教育」における経典学習の具体的な様を示すものとしても非常に興味深いものだった。それは、『経学系伝譜』の次の記述を想起させた。
〔朝食が終わると、舎起霊は〕門下生をして順番に、取り組んでいるところの経典を携えて来させ、それについて講義した。文法(那哈呉=naw)の経典<原注:アラブの文芸の字義に関する経典>の如きは、字毎にその根源は何に出るかを、そして文体は何に法っていて、その意味は何であるかを指摘した。これを“聴経”と謂った6
経堂教育は、17世紀を通じて徐々に整備され、1718世紀の交に活躍した舎起霊に至って、後代にも見られるような比較的完成した姿をとるようになっていたと考えられる。この記述は、その舎起霊の学堂における教授方法を説明したものである。すなわち舎起霊は、門下生に、たとえばアラビア語もしくはペルシア語の文法書をテクストとして教授する際、字毎の根源(アラビア語の語根やペルシア語の動詞不定形のことだろう)7、文体(完了形・過去形、未完了形・現在形などの動詞変化形の種類、あるいは肯定文、否定文、命令文、受動態といった構文のことだろう)、さらに語文の意味を教示したとある。そして、ここからは推測だが、そのような「聴経」のさい、門下生たちは、文法書を自ら筆写して教科書として持参したうえで、テクストの行間に、師の指摘した文法事項をノートしていったのだろう。またおそらく、彼らはその後の学習においても同様の方法をとったのではないかと推察される。経堂教育において、文法書の学習は初歩にあたる。学生たちは、文法書をマスターしたのち、神学や法学を攻め、さらに優秀な者はスーフィズムの研究へと進んだ。彼らは、これら諸学の経典に取り組むさいにも、文法書でやったのと同じように、自ら筆写したテクストの行間に文法事項や語釈を注記していったのではないだろうか。
海アホンの『薔薇園』の写本は、彼がそのような経典学習方法を実践していることを示唆していた。舎起霊以来の経堂教育の作法が今なお脈々と引き継がれていることを目の当たりにし、かつ、経堂教育で培われた基礎がたしかにアホンたちの経典研究を支えていることを実感し、大変感慨深いものがあった。
 さらに言えば、海アホンの威厳と気品は、そのような伝統の継承の上に形作られたもののように、私には思われた。舎起霊以来の経堂教育数百年の歴史の重み。加えて、その伝統を引き継いできた、海一族の家学の厚み。海思福の後裔は、我々の海アホンをはじめとしてアホンとなる者が多くいた8。中国におけるイスラーム学の伝統を守り伝えていくことへの自負と責任感が、海アホンのアホンとしての風格を醸成していたのだろう。そう思うと、歴代のアホンたちが、中国ムスリムたちの尊崇を集め得たことの秘密の一端を、垣間見た気がした。
 ところで、海アホンの写本が、きわめて端正な文字で書かれていたことは、実に印象的であった。そこには、イスラーム経典とそれが載せる知識への敬意と愛惜が溢れているように見えた。海アホンにかぎらず、中国のアホンたちに接するごとに、私は、彼らの知識への欲求と、その源たるアラビア語・ペルシア語経典にたいする並々ならぬ思い入れを、常々感じていた。たとえば、開封・朱仙鎮のアラビア語碑文に関する論文9を書くために、当該碑文に記されている礼拝の作法をめぐって、中国西北部のアホンたちにインタビューしたときのこと、質問のさいに森本一夫氏が作成したアラビア語碑文テクストを示したところ、アホンたちは、そのテクストをコピーしたいと頼んできた。おそらく彼らは、中国イスラームの伝統的教義が記されたテクストを、貴重な知識を伝える一種の経典とみなして欲したと思われる。
 実は、そのようなアホンたちの心性もまた、17世紀の経堂教育勃興期にすでに確認される。たとえば、舎起霊の数代前の師、馮伯菴が、ナジュムッディンー・ダーヤ・ラーズィーのペルシア語スーフィズム著作『下僕たちの大道(Mirād al-‘ibād)』を雲南で発見し、苦労して入手したという逸話が、『経学系伝譜』にみえる。『経学系伝譜』がわざわざそのような逸話を載せたのは、昔日のアホンたちによる経典探求・収集の営々たる努力こそが、中国のイスラーム学発展の礎を築いたことに敬意を表し、それを記録にとどめることで、彼らの志が後代にも受け継がれていくことを期したからであろう。
 イスラーム経典を珍重する心性は、一度それを奪われたことのある海アホンにおいて、なおさら強く宿っていたはずである。誠実かつ丁寧に筆写された写本の文字からは、彼のそうした想いがひしひしと伝わってきた。私が海アホンにたいして抱いた、アホン然としたアホンという印象は、ここでも強められた。

おわりに

 海アホンとの会見は、当初の目的からすると大きな実りがあったとは言えないかもしれない。しかし私は、海アホンという生身の人物を通じて、アホンのあり方をめぐる前近代と現代の連続性を感得し、少なくともそれを問題として意識することができた。これは、少なくとも私にとっては予期せぬ大きな収穫であった。それにしても、ごく短い時間のあいだに、アホンの何たるかを言葉なしに身をもって示して実感させた海アホンは、まことに大人物というほかない。私は彼に、経堂教育数百年の営みの縮図を見た気がして、胸が熱くなった。