2013年9月11日水曜日

宮田義矢(研究協力者)「済南回族武術調査」

済南回族武術調査(20112)                     宮田義矢

報告内容
2011222日~28日にかけて、回族武術調査のため山東省済南市を訪れた。期間中、回民小区内の清真寺において回族武術の伝承状況についての聞き取り調査を実施したほか、済南発祥の民間宗教、道院の旧址を訪問した。そこで本稿では、まず中国イスラームとの関わりと絡めてこの民間宗教の紹介を行い、後段で回族武術の伝承状況について報告する。

民間宗教と中国イスラームの関係
「民間宗教」という語の示す内容は非常に幅広い。例えば、『中国思想文化事典』の「民間宗教」の項目には、「民間信仰」、「淫祀」、「邪教」に並んで、「回教」などの歴史的「外来宗教」までもが含まれているi。この場合の「民間宗教」は、伝統的な「三教」(儒教・仏教・道教)のように王朝より継続的な認可を得てきた宗教に祭祀や教団を意味する。こうした広義の用法以外に、「民間宗教」には、いわゆる「邪教」(無論この呼称は政治的なレッテルにすぎない)―例えば羅教や白蓮教、一貫道のような宗教―を指す限定的な用法もある。本報告も一先ずこれに倣い、「民間宗教」を後者の意味で用いているii
済南市中区上新街に位置する山東省文物考古研究所(旧山東省博物館)は、かつて済南を本拠とした民間宗教道院の総本山済南母院の旧址iiiである。調査地であった回民小区と、道院旧址は直線にして500mほどの距離にある。あるいは距離的に近しいだけではなく、往時には一定の接触があったのかもしれない。道院は、創立時(1921)より宗教的普遍主義を標榜しており、項橐(孔子の師)、仏陀、老子、キリスト、ムハンマドといった聖人を祀り、儒教、仏教、道教、キリスト教、イスラームの五大宗教の一致を説いた。そして、「五教合一」と呼ばれるこの教義の具体的なあらわれとして、教団成立時の信徒に、「基督教徒」と「回教徒」が一名ずつ加わっていたことを記録に残しているiv。この回教徒は、後の山東省長唐仰杜(回族、1888?-1951)である。また、道院は、その後も宗教的普遍主義実践の一環として、五教の経典研究を進めるなどしていたが、成果の中にはイスラームの教義紹介や『天方性理』のような回儒の著作の読解も含まれており、この方面に造詣の深い人物(回族であろう)が教団に参加していたことが了解される。
著者は、道院に少なからざるクリスチャン(例えば中国YMCAの創設者の一人である王正廷が有名である)が入信していることは意識していたものの、ムスリムでありつつ、こうした民間宗教に身を投じた者があったことには、これまで、さほど注意を向けていなかった。民国期の民間宗教が、競合相手/モデルとしてキリスト教を強く意識していたことは、多くの研究者が指摘しているところだがv、イスラームとの関係については、国内に「回教」が存在しているにも関わらず、民間宗教と縁遠いものと見なされているためか、これまで言及されたことはほとんどない。しかし、民国期以降、宗教的普遍主義を唱える民間宗教(道院、一貫道、徳教など)があいついで現れ、そこには必ずイスラームに対する言及があったのであり、また道院の事例に見るように回族の民間宗教への参加があったことなどを考えると、両者の関係についても当然、意を配る必要性が強く感じられる。今次の調査で得られた気づきの一つである。

回族武術の伝承状況
自衛のための手段として回族内で伝承されていた回族武術が、広く普及されるようになるのは主に中華民国期以降のことである。民国初年以来、富国強兵政策の一環として、学校教育における体育課程の一部に武術が導入され、また民間においても多くの武術団体が創設されるなど、武術教育に対する社会的なニーズが高まった。南京国民政府下では、官弁の武術教育機関である「国術館()」の設置が全国的に進められた。1928年、張之江、蔡元培らが発起人となり創設された南京中央国術研究館(南京中央国術館の前身)は、その嚆矢である。教師として各地から招聘された著名な武術家の中には、多くの回族が含まれていた。当初、設置された武当門、少林門viの二大教務部門の内、少林門は門長に王子平(回族、1881-1973)、科長に馬英図(回族、1898-1956)と馬裕甫(済南回族、1901-1969)が就任するなど、回族が要職を占めていた。そして、彼らの修めていた査拳、八極拳等の回族武術は、国術館の教授科目に据えられたvii
済南における武術活動の盛り上がりも、こうした趨勢と連動している。済南は、中華民国期に済南鎮守使であった馬良(回族、1875-1947)が武術家招聘策(1915)を実施して以来、山東における武術伝承の中心地の一つとなったviii。済南の別称である「跤城」(摔跤の強豪都市)の呼び名も、この時期に育成された選手―多くが回族―が、192030年代に全国各地の摔跤大会で上位入賞を果たしたことによって済南にもたらされたものであったix。回族武術の伝承状況を調査する上で、済南が適地の一つであると考えられる所以である。
本調査では、摔跤名家M(元施設管理員、退職)、清真寺教長J氏らに回族武術の伝承状況について聞き取りを行うことができた。摔跤名家M氏の父親は1950年代に、いくつもの摔跤大会で優勝を成し遂げた、済南を代表する摔跤家である。またM氏自身も北京体育大学で摔跤を学び、それを職業とすることはなかったものの、現在も済南で摔跤の教授に努めている。聞き取りにはM氏の門弟が三人同道しており、年長のT(会社員)1980年代に山東省の摔跤大会で優勝した実力者だという。聞き取りの中で、印象深かったのは、摔跤世家として知られるM氏の一族から、バスケットボールチームの監督(M氏の三人の従兄弟)が輩出されているということであった。武術分野での回族の活躍についてはよく知られているが、スポーツ分野における回族のそれについては、これまで聞いたことがなかった。実は、M氏一族は摔跤だけでなく、1950年代よりバスケットボールにも注力してきたのだという。摔跤とバスケットボールという組み合わせは異色に思えたが、いずれも一族で取り組み、楽しんできた活動であり、摔跤世家だから必ず摔跤の道に進まなければならないというわけではなく、社会のニーズや個々人の嗜好に従って、職業に結びつくものを選択してきたようである。実際、北京体育大学に進んだM氏は摔跤とレスリングを専攻したが、同大学に進んだ彼の従兄達はバスケットボールに転向したという。彼らは、後に軍のバスケットボールチームに所属し、さらに監督へ転身を果たした。摔跤を専攻したM氏ではなく、バスケットボールを選んだ従兄弟達がそれを職業となしえたことは、やはり、社会的なニーズと関わりがあるだろう。
もう一人のインフォーマントであるJ氏によれば、済南では1970年終わりから80年代初めにかけて、多くの武館や体育社が設立され、武術活動も盛んであったという。文革終了後、停止を余儀なくされていた武術活動が息を吹き返したということであろう。清真寺内にも、武術練習場が併設されており、1990年代までは活動が継続されていて、上述のM氏も清真寺の「体育倶楽部」で摔跤を教授していたそうである。そのほか、J氏自身も、伊斯蘭経学院に在学時(1980年代前半)には、中央国術館の卒業生である周子和(回族1913-1996)より、教育の一環として武術を学んでいたという。武術伝承の一つの中心が清真寺等の宗教施設であったことがあらためて了解される。しかし、武術活動が再開されてから30年余りが経過した現在、一般的にいって武術を学ぶ青少年の数は大きく減少しているという。J氏によれば、その理由は、青少年の絶対数が減少しているほか、「親が子供に辛い思いをさせてまで武術を習わせたくないのだろうし、あるいは勉強など、ほかにさせるべきことがあるから」だという。努力に見合った結果(社会的な成功という意味での)が、武術からは得にくくなくなったということなのだろう。武術も数ある立身の道の一つであるとすれば、武術が職業とが結びつきがたい状況が続く限り、取り組む者の減少は避けられない。摔跤世家から、武術教師ではなく、バスケットボールの監督が三人も輩出されていることが、武術不遇の状況を象徴しているようにも思われる。J氏は、回族武術が「失伝する」かもしれないという見通しを述べていた。回族文化の重要な一部である武術が、今後どのように伝承されていくのか、注視し続ける必要があるだろう。



i 溝口 雄三/丸山 松幸/池田 知久編『中国思想文化事典』東京大学出版会、2001年、308-315頁。
ii ただし、広義の/限定的な用法にせよ、「政治的」な扱われ方が区分の指標となる「民間宗教」(特にその「民間」)概念は、現在批判的に捉えなおされている。「popular religion(「民間宗教」)」、「communal religious traditions(「共同体の宗教伝統」)」等の議論では、非エリート・民衆のみの領域として「民間」を考えるではなく、官民を問わず広範な社会階層の人々に共有された領域、また「主流/非主流」を問わず複数の宗教伝統・宗教者が乗り入れ合う領域として民間を想定している。なお、中国をフィールドとする民間信仰、民間宗教に関する議論を把握するのに便のある近年の著作として、以下の二冊を挙げておく。丸山宏『道教儀礼文書の歴史的研究』汲古書院、2004年。路遥等著『中国民間信仰研究述評』上海人民出版社、2012年。
iii 敷地内には道院の建築物が現在も残っており、入口脇の石碑に「全国重点文物保護単位 万字会旧址 二〇〇六年五月二十五日」とあるように、重点文物として保護対象となっている。なお、「万字会」とは道院の慈善専従部門「世界紅卍字会」を指す。
iv 興亜宗教協会編『世界紅卍字会道院の実態』興亜宗教協会、1941年、12頁。
v 例えば、宋光宇「教派():世界紅卍字会」『宋光宇宗教文化論文集()』仏光人文社会学院、2002年、487-560頁。
vi 創設当初の中央国術館は中央国術研究館といい、教務組織は武当門と少林門の二大門が設けられ、各門下には「科」が置かれていた。しかし、両門の教員の私闘が原因で門制は廃止され、1928年7月頃より、教務処、編審処、総務処の三処制により運営されるようになった。林伯原『中国武術史』五洲出版社、1996年、448頁。
vii 査拳は西域出身の査姓の人物(査尚義ないし査密尓と伝えられる)によって明代あるいは清代に創始されたといい、発祥地とされる山東省冠県はもとより各地の回民コミュニティに現在も伝承が見られる。八極拳も、清代に河北滄県孟村鎮(今の河北省孟村回族自治県)の人、呉鐘(回族、1712-1802)によって創始された武術である。「武術の郷」と称される同地一帯で広まった後、回族・漢族を問わず著名な武術家を輩出した。
viii 張利・金之勇「“跤城”済南的由来」(伊牧之主編『済南回族武術』済南市伊斯蘭教協会、2009)32頁。また、張利「山東済南近代回族武林英豪譜」(同上書)84頁。『済南回族武術』は、済南市伊斯蘭教協会が発行を続けている雑誌『済南穆斯林』から、特に武術についての文章を集めて出版したものである。

ix 張利「抗戦前中国摔角戦績」(同上書)5459頁。

2013年6月12日水曜日

矢島洋一(研究協力者)「高麗とムスリム」

高麗とムスリム
矢島洋一

はじめに
 筆者は20113月に行われた本科研による広州・武漢調査に参加した。モンゴル帝国期のイスラーム史を専門とする筆者にとっての最大の目的は、広州懐聖寺に所蔵される「高麗人ラマダーン」の墓碑を実見することだった。ラマダーンは元朝の高麗人ムスリム官僚という極めて特異な人物である。310日に懐聖寺を訪れ、隊員諸氏の交渉と同寺アホンの厚意により、それまで写真でしか見たことがなかった同碑に首尾よく辿り着き調査することができた。同碑は宝物館のガラス棚の中に大事に立てかけられていたが、その横の床には他にもいくつかの碑石が無造作に置かれており、中には同じく元朝期に属するヒジュラ暦727年シャアバーン月末日(13277月)の日付を持つカースィム・ブン・アブドゥッラー・ブン・ザカリーヤー・イスファハーニーなる人物の墓碑もあった。翌11日には自由時間を利用して一人で広州博物館を見学した。すると館内の売店で売られている図録にラマダーン墓碑の拓本が掲載されているのを見付け、購入した1。同碑の拓本は旧版の図録にも載っていたが2、図版が小さく研究上の使用には堪えなかった。今回購入した新版の図録は同碑に丸一頁を割いており、大きさ・鮮明さ共に十分である。研究者に裨益すること大だと思われる。
 このラマダーンの墓碑については青木隆氏と共同でテキストと訳注を近く発表する予定であるが3、ここでは『高麗史』に見えるムスリム関係の記事を抜き出して、同碑の背景を考えるためのノートとしたい。

1. 大食人の到来
 朝鮮半島には既に三国~新羅時代には西アジアや中央アジアの文化が伝わっていた。正倉院白瑠璃椀や近畿各地の出土品と同様の西アジア製ガラス器は朝鮮半島からも複数出土している。また慶州鶏林路出土の装飾宝剣はカザフスタン出土品との類似が指摘されている4。文献上で西方から到来したムスリムの存在が確認できるのは高麗時代からで、『高麗史』には前モンゴル期の高麗に大食人が到来していた記事が三箇所に見える。

A】巻5 世家5 顕宗2 顕宗159月(1024年)[上1075
 是月、大食國悅羅慈等一百人來獻方物。
 この月、大食国の悦羅慈ら百人が来て名産品を献上した。

B】巻5 世家5 顕宗2 顕宗169月(1025年)[上108
 九月辛巳、大食蠻夏詵羅慈等百人來獻方物。
 九月辛巳、大食蛮の夏詵羅慈ら百人が来て名産品を献上した。

C】巻6 世家6 靖宗 靖宗611月(1040年)[上132
 十一月丙寅、大食國客商保那盍等來獻水銀龍齒占城香沒藥大蘇木等物。命有司館待優厚及還厚賜金帛。
 十一月丙寅、大食国の貿易商人である保那盍らが来て、水銀・龍歯・占城香・没薬・大蘇木などの品を献上した。官吏に命じて手厚くもてなし、黄金と絹を授けて手厚く報いた。

 大食は西方のムスリムを漠然と指す用語なのでこれらの大食人がどこから来たのか不明だが、献上品からしておそらく海上ルートで到来した商人だったと思われる。【B】のみ大食国ではなく大食蛮(一般には dānišmand の音写と考えられる)とするが、特に区別していたわけではなく単なる混用だろう。
 まずこれらの記事に見える人名の漢字音写は、漢語音と朝鮮漢字音の両面から検討する必要があるだろう。漢語音は11世紀なら後期中古音、『高麗史』が成立した15世紀なら近世音ということになる。朝鮮漢字音は資料の問題で15世紀以降の中期音しかわからない。以下に一般的な再構音により比較する6


漢語音
朝鮮漢字音
後期中古音
近世音
ハングル
中期音
悅羅慈
jyat la tsɦz̩
ɥɛ lɔ tsʰz̩
열라자
jəl ra tsʌ
夏詵羅慈
xɦjaː ʂən la tsɦz̩
xja ʂən lɔ tsʰz̩
하선라자
ha siən ra tsʌ
保那盍
puaw na xɦap
pɔw nɔ xɔ
보나합
po na hap

 これらをムスリム名の音写とするなら、いずれの音価をもってしても確実に原語を特定するのは難しいが、漢語音よりは朝鮮漢字音に基づく方がいくらか解釈しやすそうである。既にこれら漢字音写の原語の推定はイ・フィス(이희수)によって試みられている7。まずイは悦羅慈を al-Raza あるいは al-Raziとする。印刷上の都合か特殊文字記号が省かれているが、それぞれアッ・リダー al-Riḍā、アッ・ラーズィー al-Rāzī のことだろう8。どちらもありそうであるが、「羅」の母音が [i] ではなく [a] であること、「慈」の母音 [ʌ] は起源的には [i] である9ことから、Rāzī の方が可能性としては高そうである。また「悦」をイのように al- と考えても問題ないが、y 音が付いていること、下の「夏詵羅慈」には「悦」が付いていないことから、別の可能性も考えるべきかもしれない。ヤール Yār というムスリム名が最も合いそうであるが、この時代にはあまり一般的ではない。冒頭に一字欠落があると仮定すれば、アイヤールAyyār やハイヤート Ḫayyāṭ なども可能かもしれない。
 またイは夏詵をハサン HasanḤasan)とし10、羅慈は上と同じく Raza あるいは Raziとする。これは問題なさそうである。ただこれが「ハサン・ラーズィー」という一人の人名なのか、「ハサンとラーズィー」という二人の人名なのかは判然としない。
 一番の問題は保那盍で、何らかの誤記・誤写を想定しないとムスリム名としての解釈は難しい。イは疑問符付きでバラカ Barakah としており有力な一案だと思うが、他にもバナーカティー Banākatī、アブー・ナジーブ Abū Naǧīb、アブー・ヌーフ Abū Nūḥ、イブラーヒーム Ibrāhīm などもあり得るかもしれない。
 次に、【C】に見える到来品の流通状況についてまとめておく。

・水銀
 『高麗史』には他にもいくつか水銀献上の記事が見えるが、その多くは日本からのものである11。日本は古くから丹生鉱山(現三重県多気郡)をはじめ有力な水銀鉱山を擁しており、この時期にはまだ水銀輸出国だったが、その後国内生産量の低下と需要増によって輸入国に転落していった。
 一方イスラーム世界では特にアンダルスの水銀鉱山が古くから有名で、スペインは世界的な水銀規制の流れを受けて2004年にアルマデン(Almadén ˂ Arab. al-ma‘din)鉱山を閉山するまで世界最大の水銀産出国だった。アンダルスの水銀(辰砂を含む)は国際交易の商品でもあり、イスラーム圏・非イスラーム圏を問わず輸出されていたことは複数のアラビア語文献が伝えるところである12。アンダルスの水銀は地中海を経てインド洋にも齎されていたらしい13。大食人が高麗に献上したという水銀も、もしかしたらそういった交易ルートを経てユーラシアの西端から東端へとはるばる運ばれてきたものだったのかもしれない。

・龍歯
 龍歯とは大型哺乳類の歯で、薬物として使われていた。正倉院にもナウマンゾウの歯の化石「五色龍歯」が所蔵されている。ただし交易品としてはあまり一般的ではないので、ここでは象牙を指す可能性もあるか。

・占城香
 占城は中部ヴェトナムのチャンパーである。チャンパーは数種類の香木を産出するが、ここでいう占城香とはチャンパーの名産として特によく知られていた沈香を指すのだろう14。なぜ産地名で呼んでいるのかは不明であるが、占城産の沈香は真臘産に次ぐ品質のものとして知られていたので15、三級品ではないことを明示するためだったのかもしれない。11世紀のチャンパーにおけるムスリムの活動は漢語史料やアラビア語史料から知られている16

・没薬
 没薬は乳香と共に南アラビア~東アフリカの紅海沿岸地域特産の樹脂系香料であり、薬剤としても用いられた。東アジアにいつ到来したのかは判然としないが、宋代の中国には確実に伝わっていた17。ただし朝貢等によって膨大な量が持ち込まれていた乳香と比べると、東アジアに齎された没薬の量はあまり多くはなかったようである。

・大蘇木
 染料・薬剤として使われる蘇枋木のことで、スマトラ島やマレー半島近辺の特産品として知られる18

2. モンゴル帝国期の回回人
 高麗は1259年にモンゴルに服属した。以後、高麗はムスリム(回回人)とより密接に関わっていくようになる。

D33 世家33 忠宣王1 忠宣王210月(1310年)[上689
 戊辰、以閔甫爲平壤府尹兼存撫使。甫、回回人也。
 戊辰、閔甫を平壌府尹兼存撫使とした。甫は回回人である。

E】巻123 列伝36 嬖幸1 張舜龍[下687
 張舜龍、本回回人、初名三哥。父卿事元世祖、爲必闍赤。舜龍以齊國公主怯怜口來、授郞將、累遷將軍、改今姓名。…
 張舜龍は元々回回人であり、初めは三哥という名だった。父親は元の世祖に仕え、ビチクチとなった。舜龍は斉国公主の怯怜口として来て郎将の職を授かり、将軍に累遷して今の姓名に改めた。…

F29 世家29 忠烈王2 忠烈王510月(1279年)[上591
庚子、諸回回宴王于新殿。
庚子、回回人たちが新しい宮殿で王を饗応した。

 【D】【E】は高麗で官僚として任用されたムスリムの例である。【D】閔甫については平壌府尹兼存撫使19に任ぜられたというこの記事以外に情報がないが、【E】張舜龍についてはある程度経歴を追うことができる20。ここにある通り世祖クビライに仕えたビチクチの子として生まれた張舜龍は忠烈王に降嫁したクビライの娘斉国大長公主の怯怜口21として高麗に到来した。郎将から将軍へと進み、名を改めた。郎将から始まり将軍、宣武将軍・鎮辺管軍総管、大将軍、副同知密直司事、同知密直司事と昇進し、忠烈王二十三年に僉議参理在任中に四十四歳で死去している。
 【F】の回回人がどういった立場の人間であるのかは不明だが、ムスリムと高麗王家との良好な関係をうかがわせる記事である。
 『高麗史』におけるムスリム関係の記事で最も多いのは、やはり元朝との関係にまつわるものである。

G】巻29 世家29 忠烈王2 忠烈王941283年)[上609
 元遣塔納阿孛禿刺來、督修戰艦。
 元は塔納(ダナス Danas)と阿孛禿刺(アブドゥッラーAbd Allāh)を派遣し、戦艦建造を監督させた。

H】巻30 世家30 忠烈王3 忠烈王1981283年)[上631
 八月、元遣萬戸洪波豆兒來管造船、寶錢庫副使瞻思丁管軍粮。將復征日本也。
 八月、元は万戸の洪波豆児(バハードゥル Bahādur?)を派遣して造船を管理させ、宝銭庫副使の瞻思丁(シャムスッディーン Šams al-dīn)には兵糧を管理させた。

I】巻28 世家28 忠烈王1 忠烈王元年3月(1275年)[上567
 辛巳、元遣宣諭日本使禮部侍郞殷世忠兵部郞中河文著來。
 辛巳、元は宣諭日本使である礼部侍郞の殷世忠と兵部郞中の河文著を派遣してきた。

J29 世家29 忠烈王2 忠烈王63月(1280年)[上593
戊午、元遣蠻子海牙來帝勑禁郡國舍匿亡軍回回恣行屠宰。
戊午、元は蛮子海牙を派遣し、郡国が敗走した軍を匿うことと、ムスリムが屠殺を勝手に行うことを禁じる皇帝の命令を伝えた。

K35 世家35 忠肅王2 忠肅王94月(1322年)[上709
 辛巳、元以王不奉行帝勑、遣翰林待制沙的等來訊。四月丙午、沙的執員外郞阿都刺及式目都監錄事李允緘別駕徐允公以歸。
 (三月)辛巳、元は王が皇帝の命令に従っていないとして、翰林待制の沙的(シャーディー Šādī)らを派遣して調べさせた。夏四月丙午、沙的は執員外郞の阿都刺(アブドゥッラーAbd Allāh)と式目都監録事の李允緘と別駕の徐允公と共に帰った。

L】巻130 列伝43 叛逆4 裴仲孫[下835
 初賊謀作亂、將軍李白起不應、至是斬白起及蒙古所遣回回於街中、將軍玄文奕妻・直學鄭文鑑及其妻皆死之。
 はじめ賊は反乱を起こそうとしたが、将軍李白起が呼応しなかったので、白起とモンゴルが派遣していた回回人を街の中で切り殺し、将軍玄文奕の妻・直学鄭文鑑・その妻を皆死なせた22

 【G】【H】は共に元寇のための造船に関する記事である。よく知られているように、元寇船の調達にはムスリムが大きく関わっていた。
 【I】は文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の間に元朝が日本に送った使者に関する記事である。ここでは殷世忠と河文著の名しか記されていないが、『元史』巻208日本伝によればこの二人には計議官の撒都魯丁(サドルッディーン Ṣadr al-dīn)という明らかなムスリムも同行していた。この遣使については日本側の史料にも記録がある23。鎌倉時代には日本人とムスリムとの直接の接触が始まっており、既にこれに先立つ1217年に天台宗の僧侶・慶政が中国留学中に泉州の船上でムスリム(らしき人物)に出会っていたが24、このサドルッディーンははっきり記録に残っている限りでは日本の土を踏んだ最初のムスリムである。しかし彼らは生きて日本を出ることはなく、鎌倉で斬首された。
 【J】からは、この少し前に元朝下で出されたムスリムの屠殺法についての禁令25が高麗にまで及んでいたことがわかる。
 【L】はモンゴルへの服属に反対する三別抄の反乱(12701273年)を起こした裴仲孫の伝に見える記事である。ムスリムはモンゴルの走狗と見做されたのだろう。【K】のように、モンゴルの高麗統制のためにムスリムが派遣されることもあった。

M124 列伝37 嬖幸2 盧英瑞[下703
盧英瑞忠惠嬖臣也。嘗從王如元舍於回回家竊其妻杖之遣還。
盧英瑞は忠恵王の嬖臣である。かつて王に随行して元に行き回回人の家に宿泊した際、そこの妻と密通したため杖刑に処せられ送還された。

N136 列伝49 辛禑4 辛禑1311月[下945
禑如金鼻回回家索其女不得。賜回回子鞍馬仍令編髮侍從後、又取其女著男服隨之。
禑は金鼻回回の家に行き、その家の女を娶ろうとしたが叶わなかった。その回回娘に馬と鞍を授け、髪を束ねて付き従うよう命じ、さらにその女を娶って男の服を着せて従わせた。

 最後は女性関係のトラブルである。これらは共に高麗人が元朝下で出会ったムスリム女性にちょっかいを出した記事である。
 【M】では密通の罪を犯した盧英瑞が杖刑に処せられている。『元史』刑法志や『元典章』刑部によれば、男女同意の上での姦通では両者同罪で杖刑が科され、他人の妻を強姦した場合男は死刑で女は無罪となる26。ここで死刑でなく杖刑が科されたということは、この回回人妻も同意の上での姦通であったか、少なくともそう判断されたことになる。その元朝の法に従えば女にも杖刑が科されたはずであるが、中国では唐代以来ムスリム居住区が形成され、カーディー職も設置されてイスラーム法が運用されていたので、ここでも女の方はイスラーム法に基づき科刑された可能性もある。イスラーム法では既婚者の姦通(ズィナー zinā’)にはハッド刑として石打ち(ラジュム raǧm)にる死刑が科される。
 【N】は高麗王・王禑(在位1363-1389)に関する記事である。「金鼻回回」という表現は、西方系ムスリムの容貌に基づく表現だろうか。

 以上のように高麗は様々な形でムスリムと関係を持っていた。広州懐聖寺の墓碑に名を残す高麗人ラマダーンも、そのような背景の中に位置付けて考えるべき人物だろう。





古市大輔(連携研究者)「中国回民コミュニティ雑感――清代マンチュリアの回民社会に関する歴史的検討の可能性にも触れながら」

中国回民コミュニティ調査雑感
――清代マンチュリアの回民社会に関する歴史的検討の可能性にも触れながら
古市 大輔

筆者は,本研究課題「近代中国における回民コミュニティの経済的・文化的活動」において連携研究者として参画し,20097月~8月にかけては河南省(開封・鄭州),20108月には山東省(済寧・済南),そして20128月には甘粛省(蘭州・臨夏)におけるそれぞれの回民社会・コミュニティに関する調査に参加する機会を得た。
筆者の研究分野,ならびに研究方法・対象は主に,清代後期のマンチュリア(満洲,現在の中国東北部)における歴史研究であり,これまで,ほぼ档案類などの歴史文献に依拠しつつ,当該地域に対する清朝の政治制度・諸政策の検討を通じて,清代後期のマンチュリアにおける歴史的変動を解明しようと試みてきたi
したがって,本研究課題に参加した他のメンバーに比べ,本研究課題の内容と筆者がこれまでに試みてきた研究内容との間にはいささか隔たりがあり,そのため,正直に申せば,筆者が本研究課題において得た知見はあるいはさほど大きなものではないかもしれない。ただ,そうしたいささか「門外漢」である筆者の立ち位置はむしろ,様々な比較という観点・視点を提示する余地を持っており,それによって,本研究課題から得られたその知見の持つ意味や今後の議論の方向性・可能性を,いささか別の視点から提示できるかもしれない。筆者が本稿で記す内容の持つ意味・意義は,むしろその部分に求められているものと筆者は考える次第である。
まず,筆者が参加した3度の調査で得られた知見や感想を述べておきたい。
1)当然のことではあるものの,3地域の回民コミュニティはいずれも,回民としての慣習・作法・アイデンティティを維持して生活しており,人口的・政治的にマイノリティである回民コミュニティのその強い持続性をあらためて体感することができた。
 2)ただ,特に華北の2都市と甘粛との間に顕著なものであるが,そのそれぞれの回民コミュニティの間には,その宗派,作法,さらにはコミュニティの規模などに大きな差異があり,それらは回民コミュニティと大きく括って理解するよりもむしろ,「清真寺」あるいは「ゴンベイ」ごとの小単位でのコミュニティの具体性・独自性として理解するほうが相応しいということである。こうしたそれぞれの回民コミュニティの具体性・独自性を,筆者はこの調査に参加することで遅まきながら体得したように思う。
 3)また,このことが回民が回民たるその所以かもしれないが,平時には,彼らの回民としてのアイデンティティは,ムスリム(あるいはムスリマ)としての一体性を強調するものというよりはむしろ,彼らが居住する都市,あるいは彼らの生活の核になる「清真寺」や「ゴンベイ」ごとのまとまり以上のものではない場合が多いのではないかということである。彼ら回民は,実際の都市生活を維持するために必要かつ十分な範囲で柔軟に対応しているように筆者には見受けられたが,各地域の回民社会のこうしたスタンスに筆者はむしろ強い印象を受けた。
 4)さらに,特に甘粛で強く感じたことではあるが,現在の回民コミュニティが,当然ながら,現在の中国政府・共産党や地方政府との関わりなしに維持できないという現実である。ただ,筆者の眼に映り,強い印象を受けたのは,その否定的な側面ではなく,むしろそうした政治性を「利用」しつつ回民コミュニティを維持しようとする回民指導者たちのスタンスのほうである。他方,中国政府・共産党や地方政府もその回民指導者をある程度制御することで,当該地域における自身の政治的権力の所在を明らかにしつつ,回民コミュニティの一定程度の「自治」を容認しているという構図を作り上げている。もちろん,こうした中国における為政者(国家)とコミュニティ(社会)との関係性は,現在の中国で始まったものではなく,皇帝専制体制時期にも伝統的に存在していたものであったように思われ,そうした関係性の,長く,そして強い持続性のほうに筆者はむしろ強い印象を受けた。
 5)民族学(人類学)的な調査においては当然のことかとも思うが,本研究課題の目的の一つには,そのコミュニティの現況だけでなく,彼ら回民のアイデンティティや認識のありかたなど,現存する歴史文献からは読み取れない部分の調査が目的とされていた。この調査は,筆者のこれまでの回民観が他者(つまり,為政者であった清朝やマジョリティとしての漢族社会など)の目を通した一種ステレオタイプ的なものであり,彼ら自身の認識や,その地域的な差異,並びにその具体性・独自性にあまり注意を払ってこなかった筆者の認識に大きな修正を加える,その一つの契機となったものと感じている。
 以上が本調査から得た素朴な感想と僅かばかりの知見である。「門外漢」としての感想・知見であり,また,それを差し引いてもまだ甚だ稚拙かつ物足りなさを感じるところかもしれないが,以下では,そうした知見や印象に基づき,もう少し踏み込み,清代マンチュリア史を専攻する筆者の現在の興味関心や研究領域との関わりにも触れながら,研究メモのようなかたちで今後の課題・展望として,いくらかの指摘を加えておきたい。
 第1に,清朝国家による少数民族(回民などのマイノリティ)政策と,清代マンチュリアにおけるその具体的様相に関する検討の可能性についてである。本研究課題では実現しなかったものの,現在の中国東北部で生活する回民の調査が可能になれば,おそらく本研究課題で調査をおこなったそれぞれの地域の回民コミュニティとも異なる回民像を映し出すはずであるii。上述の2)や3)で指摘した回民コミュニティの多様性はもちろんだが,4)で挙げたような中国政治と回民社会との関わりという視点に鑑みると,中国東北部における中国政府と回民コミュニティとの関わりなども大変興味深いところである。
そして,そうした両者の関わりを,筆者のこれまでの興味関心に沿いつつ,歴史的文脈のなかで捉えることも十分可能かもしれない。因みに,清朝国家はマンチュリアでは自民族である満洲族のほかにツングース系・モンゴル系諸民族に対する支配をおこなっていたがiii,では,そうした諸集団に対する少数民族支配に加え,マンチュリアにおける清朝の回民への対策は如何なるものとして理解すべきであり,かつ,清代マンチュリアにおけるその具体的様相は如何なるものとして説明し得るのだろうか。このことに対する検討の余地もまだ十分に残っているように思う。
また,この検討が進めば,いずれも当時は清朝版図の「周辺部」とも見なされていた,清代マンチュリアと特に回民の多かった「西北」地域との比較対照もあるいは可能になるであろうし,その比較によって,清代「西北」における漢回関係・漢回対立に関する理解に対しても何らかの寄与が可能になるかもしれない。さらに,清代マンチュリアの歴史を規定していた満漢関係に加え,当該地域のもう一つのマイノリティとしての回民の存在をそこに含めて論じることができれば,清朝国家と回民社会との関わり方の様相をより具体的に説明し得るばかりでなく,その関わり方の多様性や地域的差異をも紐解くことが可能になるだろう。
 第2に,清代後期の「周辺部」あるいは「辺境」地域の歴史的変動過程のなかでの少数社会(マイノリティ)の位置づけに関する検討の可能性についてである。19世紀後半の洋務運動期には,中国の「周辺部」あるいは「辺境」地域とみなされつつあった「西北」や雲南で漢回対立が顕著となっておりiv,当該地域の歴史における回民の位置づけに対する関心はこれまで常に高かったといえよう。とすれば,中国「西北」や雲南におけるこうした歴史的事象との比較を通じ,同様の視点から,同じく「辺境」地域であったマンチュリアにおける為政者・支配層たる集団(清朝や漢族社会)と回民を含む少数社会(マイノリティ)との関係性を踏まえたかたちで,清代マンチュリアにおける回民の意義に関する検討が可能になるかもしれない。
因みに,筆者は洋務運動期を含む19世紀後半のマンチュリアにおける歴史的変動とそれに強く関わった清朝の対マンチュリア諸政策についてこれまで研究を進めてきたが,現在は,その清朝の諸政策が同時期の中国他地域における諸政策と如何なる関連性・類似性を有していたかという比較史的な関心も持ってきているv。夙に様々な指摘があるように,清代マンチュリアにも確かに回民は存在・活動していたがvi,それでは,激変状況下の「辺境」地域の一つであったマンチュリアの回民社会の姿をどのように描き,また,清朝はその回民社会に対して如何なる対応をおこなっていたと説明し得るのか。さらに,回民の人々や社会のその振る舞いは,清代後期のマンチュリアにおける歴史的諸変動との関わりのなかでは如何に位置づけ得るのか。そして,その回民社会は,近代マンチュリアにおける地域社会の急速な形成過程のなかでどのようにしてその過程に対応していったのか。こうした様々な課題設定を,本調査からさしあたり想起できるのではなかろうか。
例えば,その議論の糸口としてさしあたり現時点で指摘し得ることとしては,清代マンチュリアにおける瀋陽の名士であった鉄氏一族や軍人の左宝貴などの政治的台頭などを,回民社会自体の変容とともに,清代マンチュリアにおける歴史的変動と関わらせつつ如何にして論じることが可能かという議論を挙げることができるが,このような点を手がかりの一つとして清代マンチュリアにおける回民社会の歴史的意義について具体的に検討することが徐々に可能になってくると思われるvii
 第3に,文献史学と民族学(人類学)的フィールド・ワークとを接続しつつ,それをマンチュリアの歴史研究や当該地域における回民研究に援用させる可能性についてである。
これまでに既に行われてきている様々な回民社会調査記録を前提に,本調査の手法を援用しつつ,現在の中国東北部における回民社会へのフィールド・ワークをあらためて行い,それを通じ,当該地域の回民社会の現状と歴史についての再検討を試みる余地はまだ十分に残っているように思う。因みに,20世紀前半の中華民国期や満洲国期のマンチュリアにおける回民社会については,近年,田島大輔氏や安藤潤一郎氏らによる精緻な研究がなされているがviii19世紀以前の時期,すなわち清代以前のマンチュリアにおける回民社会の歴史に関しては,中国「西北」や雲南と同様,文献資料が極端に少ないため,本研究課題のような民族学(人類学)的フィールド・ワークを通じた回民社会とその歴史の捉え直しの可能性や余地が十分に残されているものと思われる。
最後に,第4の可能性として,清代から近代以降に至る時期のマンチュリアにおける回民社会の変容について検討する際の視角の提示可能性についてである。近代中国における回民社会の変容は如何なる要因から説明しうるのであろうか。これまでの回民社会研究においては主にその宗教・認識・教育などの側面からの検討がまず進められてきたように筆者には感じられるが,商業をその主たる生業とすることの多かった回民の経済的活動とその変容のありようからも回民社会の変容を説明することが可能であろう。
因みに,清代のマンチュリアにおける商業・流通構造やそのルートなどに関しては,夙に様々な研究成果があり,また,マンチュリアへの漢人移民の歴史的展開という主題も,清代マンチュリアにおける社会経済史的な検討課題の中核とされ続けてきたix。こうした清代マンチュリアの社会経済史的文脈のなかに,マンチュリアにも浸透していった回民社会の動向は如何に位置づけられるだろうか。また,近代マンチュリアにおける社会経済史的変動はこれまで「河運・水運の衰退と陸運の台頭」として説明されることも多かったがx,こうした説明を援用できるならば,近代マンチュリアにおける商業・流通面での変容が当該地域における回民社会の生業や生活を如何に変化させたのであろうか,という問いも可能になってくるであろう。もちろん,そのことはマンチュリアという特定の地域に限定するまでもなく,清代までの中国における商業・流通構造やそのルートやネットワークが近代以降に如何に変化し,かつ,それに伴って回民社会が如何なる変動を遂げたのか,という課題としても設定することが可能であろう。そして,この課題は,中国における回民社会の歴史的変遷を総合的に捉える際の重要な一視点となるはずのものであろうと筆者は考えている。



吉澤誠一郎(研究分担者)「コミュニティ、エスニシティ、フィールドワーク」

コミュニティ、エスニシティ、フィールドワーク
                         吉澤誠一郎

 今回の科研調査は、主に河南・山東などの回民コミュニティを回り、碑文をはじめとする歴史文献を実地に求めるとともに、聴き取りを行なうというものであった。ここでは、その観点や手法について反省的にふりかえってみたい1
 私は、今回の科研も含めて過去10年ほどの間に、多くの中国ムスリムのコミュニティを訪れる機会を得た。最も頻繁に訪れたのはモスクであった。中国ムスリムは、おおむねモスクを含む一定の地区に集まって住んでおり、このコミュニティの中核をなすのはモスクであると、ひとまず考えられる。今日では中国都市の再開発が進み、天津の老城西北角のように旧来のムスリム集住地区が大きく変容させられた事例も珍しくない。しかし、歴史的には、そのようなコミュニティが中国ムスリムにとって重要な生活の場であったと考えてよいだろう。それは研究史のなかで「中国のイスラムの共同体または清真寺共同体」2と呼ばれたことがある。
 しかし、そのコミュニティが、とくにモスクとの関係でどのような構造をなしているのか、または構造といえるほど緊密なまとまりと言えるのかどうか、といった問いについては、いまだ十分な回答は得られていない。現状については一定の知見が得られるとしても、歴史的な分析は難しい。
 回民コミュニティは確かにモスクを宗教的な中核をなすと見ることができる。モスクのアホンは、当該コミュニティの信者組織によって招聘されて着任し、その地区の宗教的な生活において重要な役割を果たす。しかし、一つのコミュニティに二つ以上のモスクがあるのは普通のことである。このように複数のモスクがある理由は、単に現在の機能的な必要だけでは説明しきれず、過去の宗派的な対立などの歴史的な経緯をたどることによって初めて理解できる場合も多い。
また、コミュニティを成り立たせる要素として、むろんモスクの存在は決定的な重要性を持つのだが、アホンの招聘をはじめとして、その運営にあたる信者組織(郷老)の意味は大きい。社会史的な観点からすれば、この信者組織について、いっそうの探究が不可欠であろう。今回の調査で訪れた山東省の小金荘では三掌教の制度が機能していて、伊瑪目は金氏、海推布は馬氏、穆安津は周氏が世襲するという形になっていることがわかった。宗族とコミュニティ運営が密接に結びついているのであり、このありかたは100年、200年と遡る可能性がある。小金荘コミュニティは一つの自然村落がほとんどムスリムによって占められるため、このような形態が続いてきたという特殊性があるのかもしれない。他方で、都市部では、どのような形で信者組織が運営されてきたのか、我々の知識はまだ不足している。
モスクごとに信者の組織があるとすれば、複数のモスクがある場合には、ひとつのコミュニティ(と見えるもの)は実はモスクごとに別途に編成されているということになるのだろうか。簡単にそういうべきではない。確かに、信者がどのモスクに通うのかということは、宗教的な生活においては重要なことではあるが、モスクごとに生活全般が分かたれているわけではなく、やはりムスリムの集住区としてのコミュニティが大きな意味をもっているからである。このように考えてみれば、そのコミュニティという概念について、改めて反省しながら、より立ち入った議論をすることも必要であろう。
 概念の反省といえば、民族やエスニシティという視点についても我々は常に問い直していかねばならない。中華人民共和国では国家の基本的な構成要素として「民族」の範疇が設定されていて、中国公民はみな身分証に民族籍が記入されている。むろん、そのことも現在の人々にとって意味をもつ局面はあるが、私が知りたいのは、それだけではなく、より広範な社会の現実なのであり、それをエスニシティなど称することもある。「回民」という中国語がよく使われるのは、「回族」というのでは表現しきれない何かのリアリティがあるからだと私には思われる。ムスリムであることと回族・東郷族・保安族・サラール族といった民族籍をもつこととも間にも一定の緊張があるし、また、この調査以前に雲南省ではぺー族のアホンにも会ったこともある。
 私のような歴史学者は、このようなエスニシティを通時的に変遷するものとして把握しようとする傾向が強い。しばしば、他の研究視角をとる研究者の間では、「本質主義」と「構築主義」という二項対立で議論を進めることが多いようである3。ときに、先行研究の整理においても、エスニシティについて「本質主義」と「構築主義」という見方の相違を指摘することがある。しかし、私にとっては、エスニシティが歴史のなかで「構築」されてきたというのは自明のことであり、そのような論点整理そのものが奇妙とも感じられる4
しかし、それは研究者としての外部の視点にすぎない。逆に、民族の自己認識の重要性を強調する指摘もある。楊海英は、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」論を批判して「民族を「想像」の視点で研究する場合、その「民族」形成の歴史的プロセスと当事者たち自身の認識を否定しかねない政治的危険性が潜んでいる」5と述べている。むろん、楊は民族形成の動態性を強調しているので、必ずしも「本質主義」にくみするわけではないが、何より当事者の認識を重視すべきだという主張は、理論家の「本質主義」と「構築主義」といった区分をはねかえす強さを有している。
 我々の調査は、モスク訪問に大きな重点がある。アホンは地元コミュニティの人ではなく、あちこち移動しながらイスラーム教学を修めてきたことから、視野も広いのだが、当然ながらイスラームの普遍性を前提とした発想を持っている。このようなアホンの存在(そしてイスラーム教学を志す弟子マンラー)は、地理的に分散しているムスリムのコミュニティをつなげていく一つの大きな紐帯となっている。しかし、このことが、河南や山東の回民、甘粛のサラールや東郷といった人々のエスニシティ形成にもつ意味については、まだ深く考えてられていない課題といえるだろう。新疆においても、地元のウイグルの人々と移住してきた(または移住させられてきた)ムスリムの人々は必ずしも同じモスクに集うわけではなく、イスラームの普遍性ということでは、エスニシティの現実はとらえきれない。
 他方で、昨今の交通手段の発達やインターネットの普及は、巡礼のためのサウジアラビア訪問、国際的なイスラーム主義思潮の普及など、ある種の思念された共同体としての「イスラーム世界」の観念を中国のムスリムにも注ぎ込んでいるともいえるだろう。これもまた、現今のリアリティとみなすべきである。
歴史的にも、少なくとも20世紀前半における中国イスラームの復興運動には、国際的な契機が大きく関係してきた。ウイグルの民族意識が20世紀の産物であることはよく知られているが、実は、中国ムスリムの改革運動も、20世紀中国の民族主義に加えて、国際的なイスラーム復興と関係した歴史的な経緯を持っているとみてよい6。そして、これがコミュニティのあり方とどのような関係にあるのかという点の解明が必要であろう7
 さて、最後にフィールドワークと歴史学研究の関係について見てみよう。概して、フィールドワークを主要な方法論とする研究者から歴史学者への眼差しは厳しい。ただし、私の見る限り、(意識的・無意識的な)誤解に基づく不適切な批判も散見される。
それにしても、やはり考えていかなくてはならない論点は山積している。最大の問題点は、フィールドワークをどのように歴史学研究に生かしていくべきかについて、十分な共通理解が無いことだろう。
 この点、近年、江南地域のフィールドワークを精力的に進めている太田出と佐藤仁史の主張には、傾聴すべき点が多く含まれる。太田・佐藤らの調査は、現地でないと得られない文献の入手という側面も有しており、地方文献の発見と景観調査そして現地の人々からの聴き取りを総合的に組み合わせようとしている。まだ進行途上の研究なので、その成果の全貌について論じるには時期尚早かもしれないが、彼らがフィールドワークについて述べていることは、真摯に議論していくための出発点として非常に有意義である。
 太田が指摘するように、1980年代半ば以降、日本の歴史学者が江南でフィールドワークを開始した学問的理由は、「文献資料に依拠しながら描出されてきた歴史世界があくまで文字を駆使しうる知識人層の認識する世界であり、小農民の世界、すなわち「非文献」の世界を表現しようとすれば、文献資料のみでは十分でなかった」8という認識に求められる。それを踏まえ、今後の地域社会史研究は、「文献資料に依拠する理論研究と、フィールドワークによる景観調査・口碑資料収集に依拠する実態・事例研究を並び進めながら、一方で二つの方法論のせめぎあいと相互補完関係を試みる中で構築されていく必要があると思われる」9と太田は提言している。このような点は、ムスリム調査を行なう我々にも共感できる姿勢であろう。
 今後、大いに議論していくべきことは、フィールドへの入り方とそこで得られた情報の使い方、そして現地の人々とのつきあい方といった具体的な事柄である。ここではひとまず、どのようにフィールドに接近するかということのみ考えてみたい。
 佐藤・太田らの方法は、個人的な関係による接近である。過去の学者による調査では、地方政府や社会科学院と折衝して受け入れてもらうという方式が多くとられたが、彼らのグループは「現地協力者や郷土史家との間に築かれた友人としての関係を通して口述調査を実施した」。この方法は「偶然性に依拠していて極めて非効率的であるという問題点を有するものの、インフォーマントにたどり着くまでの人間関係や彼らが置かれた立場を慎重に吟味する必要があるため、却て基層社会の理解に裨益することも多いように思われる」という10
 これは、我々のムスリム調査が、地方政府や公式の研究機関と関係なく進んできたのと同様であり、ここで佐藤・太田がいう意味も私には理解しやすい。とくにムスリムのコミュニティにおいては、モスクが重要な役割を果たしていることは疑いないから、まずモスクを訪れることは自然な勢いである。何らかの紹介を得て訪れることもあるが、全く飛び込みの訪問でもアホンにきちんと応対してもらった事例は数知れない。これには、いくつかの理由があるだろうが、やはりアホンは地元民ではなく、比較的広い社会を見てきて学識も積んでいるから、「中国のイスラーム文化に関心がある」と称する日本人に対しても比較的容易に接点をもつことができるからだろうと、私には感じられる11
 他方で、アホンは、地元コミュニティにとっては外来者である。アホンは確かに当該コミュニティの宗教的生活の全般に目を配っているはずだが、しかし、もしコミュニティの歴史について深い理解を得ようと思うならば、やはり地元民からの聴き取りをさらに深めていくことは不可欠であろう。
 もう一つ留意すべきこととして、外国人なかでも日本人が調査を行なうことについて、とくに困難な点があるかどうかという点がある。日本人が漢語を用いて調査すると、ムスリムたちは中国の漢族と区別がつかず、まともに回答しないだろうといった批判もあるが12、その指摘は現実には全く的はずれといってよい。むしろ、私が懸念したのは、過去の日本の侵略がムスリムのコミュニティに与えた被害のことである。たとえば、開封で聴き取りをすると、しばしば半世紀以上前の洪水のことが出てくる。個人史のなかでも、つらい記憶と結びついている場合もある。これは実は、1938年に中国軍が黄河を決壊させることで、日本軍の侵攻を防ごうとした事件を指している。日中戦争によって洪水が引き起こされ、多くの人命が失われたのである。また、華北都市では、日本軍の占領のもとムスリムのなかから対日協力者となった者もいたであろうが、彼らが日本の敗戦後に被った苦難についても、調査に当たっては十分に意識しておくべきであろう。
我々の調査は「ゲリラ・フィールドワーク(guerilla fieldwork)」と揶揄されたこともある13。このような方法が真に望ましいものかどうかは、まだ確言できないが、太田・佐藤の方法論にも学びつつ、まだ視野を拡げていく可能性は残っていると考えられる。そして、コミュニティやエスニシティなど理論的な概念についても、あくまでフィールドから深い吟味を加えていかねばならないと思う。








1 本稿は、拙稿「社会史」岡本隆司・吉澤誠一郎編『近代中国研究入門』(東京大学出版会、2012)の記述を補うという意味がある。あわせて参照されたい。
2 佐口透「中国ムスリムの宗教的生活秩序」『民族学研究』134(1948)331頁。
3 たとえば、上野千鶴子編『構築主義とは何か』(勁草書房、2001)
4 このように「本質主義」と「構築主義」を対照させる整理法の不可思議さは、このような対照を行なう論者はほとんど後者の立場をとっていることで、「本質主義」者を自称する人があまりいない点にもある。
5 楊海英『モンゴルとイスラーム的中国』(風響社、2007)26頁。
6 中国におけるイスラーム復興思想と近代主義については、佐口透「中国イスラムの近代主義」『金沢大学法文学部論集』史学篇16(1969)、中国ナショナリズムと「回族」意識については、安藤潤一郎「「回族」アイデンティティと中国国家──1932年における「教案」の事例から」(『史学雑誌』10512, 1996)参照。
7 開封のコミュニティについての注目すべき考察としては、王柯「重層的社会におけるアイデンティティの形成少年時代の白寿彝と開封」『中国研究月報』532(1999)
8 太田出「中国地域社会史研究とフィールドワーク近年における江南デルタ調査の成果と意義」『歴史評論』663(2005)56頁。
9 同前、60頁。
10 佐藤仁史・太田出「序論」佐藤仁史ほか編『中国農村の信仰と生活太湖流域社会史口述記録集』(汲古書院、2008)9頁。より詳細には、佐藤仁史・太田出「太湖流域社会史現地調査報告外国史研究者とフィールドワーク」『近代中国研究彙報』30(2008)参照。
11 また、モスクの近くで開業しているイスラーム関係用品店もよく訪れてきたが、彼らも商売柄、見知らぬ者と接触をもつことに抵抗感が少ない存在でもあったと言えるだろう。
12 B. J. ter Haar, “BoekbesprekingenArabica,” Bibliotheca Orientalis, vol. 63, no. 5/6, 2006, p. 620.
13 Ibid.